interview

50周年記念インタビュー
井口 潔 先生

消化器外科学会は1968年に発足し,第1回総会を開催してから,
2018年で50周年を迎えます.学会創立の立役者の1人である井口潔先生に,
設立当初からのお考えや苦労された点など,今の世代が知らないことをお話いただきました.
聞き役は日本消化器外科学会3代目理事長 森正樹先生です.

日本消化器外科学会創立の時代

世界的に見ても,消化器外科全体を網羅した学会というものはあまりないんですね.アメリカにも消化“管”学会はあるんですが,いわゆる肝・胆・膵を含めた消化器外科というのはないようです.日本で消化器外科という,食道から胃,大腸,それから肝胆膵の疾患全体を網羅した学会を設立しようとされたきっかけは,中山恒明先生の呼びかけであったと.そこから梶谷鐶先生,村上忠重先生,山岸三木雄先生などが話をされて,井口先生も13名の設立世話人に参加されていますね.当時すでに,日本外科学会という基盤になる団体がありましたが,新たに消化器外科学会を発足させることに,反対はなかったんですか.
井口
日本消化器外科学会は1968年の設立ですか.その年の6月2日に,九州大学の構内に米軍のジェット機が落ちたんですわ.それで大学紛争が始まったわけです.私が教授になったのが昭和38年,1963年です.その頃は表向きは大きな騒ぎはなかったけれども学内はざわざわしていて,きっかけがあれば何でも良かったんですよ.そこにジェット機という格好なものが来たからね,これだ! と学生運動に火がついた.
学会の創立はそんな大混乱のときです.大学はとてもじっくり学問をしようというような雰囲気ではない.一方において,外科学会の総会をするところというと,ある程度人口の多いところと決まっている.だから有能な方がおられても,勤める場所が適当でなければその役割が回って来ない.表向きには言うわけにはいかないが,そういう地の利のない方でも十分に活躍できる場を作りたい,そういう理由もあったんです.
なるほど.
井口
ところがですね,もちろん消化器外科というのは外科の中心になるわけですが,今から私が翻ってみますに,九大は1903年にできています.東京帝国大学,京都帝国大学と来て,九大は3番目です.九大からすると,帝国大学ができて1945年という終戦,どこの場所でも終戦です.それまではドイツ医学でやってきました.終戦からアメリカが入って来て,アメリカ的な医学も入って来たわけです.そうするとね,消化器外科っていうのは,ドイツ医学のやり方を強く持っておった.私の先生の友田先生も,助教授時代にドイツに留学しておった.そこでドイツ的な,いわゆる学問的なやり方が,基盤であると強く思った.
そもそも医学用語がどこから起こってきたものかというと,オランダのライデン大学で起こったものがイギリスのエディンバラ大学に移り,そこで花が咲いたわけです.それが病院医学なんです.各国から留学してきた医師が,自国に帰って自分の医学を作ると.
日本の場合はご存知のように,相良知安が明治政府にイギリス医学ではなくドイツ医学を採用するのがいい,と言い出してそうなった.ところが,19世紀初めのドイツでは科学分野においてもロマン主義が流行っていて,サミュエル・ハーネマンという医師がホメオパシーという変な医学を始めていたんです.
例えば,マラリアにはキニーネが効きますが,マラリアにかかっていない人に少量のキニーネを投与し続けると,その人にはマラリアの症状が出るんだそうです.ハーネマンはそれを見て,病気を治すには,その症状を引き起こす薬を見つけて来て,少量ずつ飲ませれば治るんだという考え方をし,それをホメオパシーと呼んだ.そういう,科学的でもなんでもない,近代医学でない思想がものすごく流行っていたんです.また,当時ドイツはイギリス,フランスとも仲が悪かった.そこでドイツの若い科学者が,こんなことをしとったら大変なことになる,遅れる,ということで.研究室医学をやることになった.顕微鏡で見て,動物実験をやる.それで研究室医学のほうはすぐに結果が出ますよね.一方,病院医学は患者を診るから時間がかかります.しかし見栄えが良かったわけです.
さて,明治維新で,日本はどこの国の医学を手本にすれば良いのかというとき.イギリスのエディンバラ大学を卒業した医師が,戊辰戦争のとき,脚の切断とか妙味あるような先進医学を見事にやってのけた.だから当然,「イギリスを師匠にすべし」,と声の大きい山内容堂が言いましたが,今の文部省の医学教育長に相当する立場になった相良知安が「お前はどこの国を師匠とするか,国を選定せい」と問われた際に「ドイツであります」と答えた.大隈重信の後押しもあり,山内容堂らを抑えて日本の医学の師匠はドイツになったんです.
文部省の留学生として,私の恩師世代の人たちが全部ドイツに行って,その学問らしい雰囲気に感激して帰ってきた.
だから戦後,私たち弟子がアメリカの医学のいいところを言うとものすごく機嫌が悪くなりました.「やっぱりドイツ医学がいいですね」と言わないと怒られる.ドイツ医学を礼賛していたんです.戦後は社会のほとんどがアメリカナイズされましたが,医学だけはそうならなかった.私が教授になった1963年から1970年にかけて,そんな我々の恩師たちが定年になって辞めた.こういった背景があり,大学紛争が始まる頃に,日本の医学が変わったんです.そんな間に,日本消化外科学会ができたというのは,一つ面白い見方がある.時代が変わって私ども1920年生まれくらいの者が教授になった.さてこれからの日本の医学をどうするかというとき,アメリカナイズに頑強に従わなかった医学界は,1970くらいの学生運動の時期,日本の医学をどうすべきかということを冷静に考えた.だから1970年頃に,我々の恩師はドイツ医学だったけど,我々はドイツ医学のいいところとアメリカ医学のいいところを合わせて,本来の日本の医学を作ったという自負がある.そういう意味で,非常に面白い.大きく開腹して直視下で手術をするのがドイツ式ですが,そういう基本を我々がやった.患者さんのリハビリとかいうことより,病気を治すこと重視.そんな時代が1990年くらいまで続きました.その頃からロボットや内視鏡とか新しいものが入って来た.そのときのアメリカ医学の良いところは,インフォームドコンセントですね.1950年くらいにアメリカからそういう情報がどんどん入って来た.日本では滅多にないが,アメリカではすぐ医療裁判するんだと.だから裁判に負けないようインフォームドコンセントをちゃんととっておくんだと.でもだんだんそうでもないぞ,と.
やはり手術を受ける患者の心理も考えなければならないと日本人も反省して,そういうアメリカの考え方を受け容れた.だけどがんの治療をするとか手術をするとか,根底は消化器外科学会がきっちりやっとった.
本音のところでは,旧帝大系の教授は活躍の場があるけれどそうでない有能な方がなかなか会長になれないので,作ろうという気運があった.その後に,もう一つ,若い世代が教授になられて,これまでのドイツ医学の流れに新しく入ってきたアメリカ医学の流れを取り入れたうえで,日本独自の医学を構築していかなければならないと,そういう気運が高まって,ぜひ新しい学会を作って発展させていこうじゃないかという時代だったということですね.素晴らしいお話をうかがいました.
井口
消化器外科学会ができてから10年後,1978年に総会の会長をしましたが,その10年間はものすごく面白かった.ある意味では混乱を起こしてもいたんだけど,俺はこうするんだと言うと,実現できた.古典的な外科というものが日本で花を咲かせたのはこの時期なんです.消化器外科学会ができた頃です.実際,私も短期間ですけどアメリカに行って,アメリカ医学というのはアメリカ人の体質もあるけど,大きな決定的な手術はやりにくい.どうしても姑息的になってしまう.日本人の性格もそうですけど,体に余分な組織があまりないからきっちりやると.だからアメリカへ留学したり向こうから来ても,「本来のものはこうでしょ」というのが通るんですね.ですからそういう意味で,古典的な外科学を樹立したのは日本であるし,それをしたのは消化器外科学会設立の時代であると誇りを持っていい.倫理的なところは,武士道精神からアメリカ式の現実というものを率直に取り入れました.ですから外科の手技的な部分はアメリカが入って来ても,古典的なものは微動だにしていない.ただ心臓移植とかは遅れましたけどね.今から思えば,心臓移植をやった南アフリカの人権問題なんか考えないところですからね.ドイツ医学で学んだ先生の次世代が,新しい時代に即して本当のドイツ医学の良さを完成させた.その自負心は強調されていいと私は思います.

専門医制度

たいへん貴重なお話です.日本消化器外科学会の特長は,専門医制度と,評議員を点数できちんと選ぶところかと.若い人でも頑張れば専門医になれる,教授であっても足りなければ落ちるという,ある意味透明性の高いシステムです.先生は専門医制度にも関わっていらしたと思うのですが,何かお話がございませんでしょうか.
井口
大学紛争の最中に専門医制度の議論,盛り上がりましたね.私は賛成しましたが,専門医とそうでない者が差別される,差別はいかんという反対があった.だから私が日本外科学会会長になったとき,低迷していたものをどこかで「やれ!」と言わないとダメだと思った.
先生がイニシアチブをとられて外科学会の認定医制度がスタートしたんですね.昭和53年に専門医制度検討委員会が立ち上がりまして,そのときの委員長が井口先生.外科学会の認定医試験が始まったのは多分昭和60年くらいかな.私が第1回受験生です.そこから数年遅れて消化器外科学会でも専門医制度が始まった.今年から,日本専門医制度機構というところが正式に発足して,各領域の専門医を認定しようという動きがまた新たにスタートしているところです.また,日本消化器外科学会の評議員に関しては.たとえ若くても頑張って業績評価の点数を取れば評議員に選ばれるようになっています.他の学会は偉くないとなれませんから.
井口
いいシステムですね.

老婆心録

井口先生が還暦の頃に書かれた『老婆心録』を拝読して,私たちも気持ちを新たにしました.九州大学の第二外科は礼儀にも臨床にも研究にも厳しかったけど,厳しいからイヤだということはなかった.老婆心録,これは非常によく読まれている.各大学,例えば東北大学もこれをモットーにしている.ほんのちょっとモディファイしたものを教室に配って.阪大も礼儀に関しては甘い点が見受けられたので教室員に配っている.今読んでもその通りで,こうあって欲しいと思う通りです.先生,これをまとめられたときの思い出というのは.
井口
昭和20年,学徒動員で軍医候補生になったんですね,卒業する前に.そこで2か月間教育を受けて,見習士官になるわけです.そのときの教育隊長が東大出の軍医だったんですが,その人が,「わずか2か月で君たちに何も教えることができなかった.せめて各隊に配属されたらまずこれを読んでくれ」と言って,われわれに老婆心録というガリ版刷りをくれた.私の作った老婆心録はそれをちょっとモディファイしたものなんです.もとの老婆心録は50行ぐらいで,まず最初に理想に燃えて何でもやるぞという気概を持ったのが青年将校だといったことが書いてある.次に具体的に,君たちが所属する中隊だ.中隊に一人軍医がいる.一個小隊が多くて100人ですから,400人に1人軍医.そうするとまず命令を受けて赴任すると中隊長に挨拶をする.「到着いたしました」.と.多分,下士官が「ここにおかけください」と言うだろう.絶対に座ってはならない.わずか2か月間で何もわからないのに座ったら,自分でできるだろうかというコンプレックスができるから,突っ立って,ぐっと手を後ろにして執務中の隊長を睥睨しておけ.俺は負けんぞ,と.そういうところから始まる.そして軍医として赴任したら部下の姓名を暗記しろ.ぱっと合ったら「お,田中,元気か」と.そうすると部下は感激する.そういうところから掌握するんだ,とか.極めて具体的なことが書いてある.それをモディファイしたんです(笑).
その方は自分の経験則からまとめられたんですかね.すごい方です.
井口
でしょう.ガダルカナルで九死に一生を得て中佐で帰って来て,教育隊長になったとき大佐に昇任して.今から見るとおかしいけど,私どもはそういう教育隊長,大佐という方が眩しくてですね,よく上官の顔を見ることができないわけ.命のやりとりをする,いちばん長だ,この人のために死んでもええ,と思っていたんです.

九大医学史観

井口
九大の医学の歴史にはうねりがあります.第一期が開学から終戦まで.第二期が終戦から1990年くらいまで.第三期がそれ以降.第一期がどういう時代かというと,ドイツ医学を引用はしたけれど,まず何も知らない.漢方のことは知ってるけど,カルテの書き方もしっかりしていなかった.1903年から1945年までの約40年間は,医学そのものを体系づけるための勉強ですから,まず症例報告をきっちりやる.症例報告をやるうちにいろんな文献を調べて患者を診るということですから,医学そのものを新しく開発するというような時代ではなかったですね.しかも昭和5年頃から軍医に戦死者が出て来る.満州事変とか.そして戦争末期はおびただしい戦死者が出るので,卒業したらすぐ戦地で,医局員はほとんど残らない.そうするとこの第1期が医学としてどういう時代であったのか,どういう表現をしたものかと困ったことがある.そのとき,ハッと思ったのは,医師としての教育をやったんだということ.人間教育ですね.ところが終戦の前の帝大には旧制高等学校を出ていないと入れない.旧制高等学校というのは旧制の中学校を出て,3年間の高校生活をする.そのときに,受験勉強とはまったく無縁の3年間です.旧制高校から大学に入るのは無試験に等しいわけ.帝大は倍率2倍近くのことがあったけど,単科大学はがら空きですから.入学試験に勉強する必要はまったくない.そこで哲学や人間というものを徹底的に,しかも先生からじゃなく上級生からやられるわけですね.旧制高校の非常にいい経験を持ったものだけが旧帝大に入るわけ.そうすると,入って来た学生は3年間,学校の勉強はせんで,哲学ばっかりやってきてる.「裸になれ,バカになれ」裸にもなれん奴がどうやって人の役に立てるか! と.運動部のそういう.目の前にいるのは上級生で尊敬される.そういう3年間で,「あーよく遊んだね.これからは勉強せんといかんね」と来る.大学入ったとき,教授がしごいても,「待ってました!」と一生懸命勉強するんです.それは目的があるんじゃない,人間としてやらねばならないんだという,強烈な人間教育の塊があるんです.強烈な人間教育というものをやったのが,第1期.
帝国大学はそういう一つの強みがあった.そして終戦になって,新制大学ができ,教授が必要となる.そこで旧帝大の強烈な人間性を持った面々が教授になって行った.当時の新制大学はたいてい専門学校が昇格したものだったんですね.大学になったけれども,いい教授がいない.その教授を第1期の旧帝大が全部補給した.そして第2期に,その教授たちが古典的外科学を作り上げた.
日本はどういう医学の発見をしてきたのか.流通的なことはよく評判になりますが,誰がそれを指導したのかということはあまり文章に出ませんよね.その指導者を養成したのが第1期である.それは強く言っても言い過ぎることはない気がします(笑).そういう誇りを持っていい.
初期の日本消化器外科学会を支えて来た方々が,そういった各大学の先生ですね.
井口
そう,みんなそうです.

若い外科医へのメッセージ

そういう時代を経て,もうすぐ設立50周年を迎えますが,会員数としてはこの20年くらいあまり変わっていない.外科学会も含め,外科系の学会の問題点は,新規の会員数が増えないということなんです.実際には会員が若干減っていて.昔より医学部の定員自体は増えているので,本来なら少しずつ増えてしかるべきところが,そうではない状況が続いてる.由々しき問題なわけなんです.私たちとしては,どうして減っているか調べたりしているんですが,一つ,新しい臨床研修医制度が始まって,最初の2年の間で,外科/内科,いろいろな科を回るんですね.回ったときに,外科がどうしてもきついと.表面的な理由で敬遠している人がかなりいるのではないか,と.本音は聞けないので,実際はわかりませんが.外科系志望だった人も2,3か月外科を回っているうちに「辞めとこう」と.情けないんですが,先生からご覧になって,若い子どもたち,どうでしょうか.もうちょっと頑張って欲しいと思ってしまうんですが.
井口
強くそう思いますね.物質経済のところに全部関与していますよね.それはいい悪いじゃない.経済はうまく動かないとどうにもできないから.それはそうなんだけども,脳の機能から言うと,脳の新しい機能ですね,大脳新皮質系という,何か物事をやらなければならないときに働くものです.これをよく使う一方で,古い脳,大脳辺縁系はおざなりになっている.人間の脳というのは二つの層から成ってるから,両方をバランスよく使う必要がある.知性ばかりでなく古い脳,いわゆる感性を強く使わなければならないということが,生物学的にあると思うんですよね.ところが感性というのはちょっとつかみどころがない,抽象的で.だけど,何かの目的のために論理をつかまえてやっていくということばかりやってくと,どっかで行き詰まるよと,人類は滅びるかもしれないよ.人類は繁栄のために生きているわけですから,大学まで出たような者は人類が繁栄することに対する責務がある.そう考えると,易きに流れるということは言語道断であると.医師というのはエリートで学問もよくでき,親もちゃんと学費をだしてくれて恵まれているわけですね.恵まれた者ができるだけ娯楽的に,楽な仕事に就いたら,これは人類は滅びますよ.でも現実問題として,そういうこと言っても仕方がない.具体的にはやはり体で覚えないかん.そうするとやっぱり医局というもの,昔ながらの徒弟制度ですね.医局の中でいろんな役割をするし,人の世話もするし,ということを,医者というものは必ずどっかで経験せんといかん.それでいてできるだけ給料は安いところ.若いときにそういう習慣をつけてしまわないと,人からも尊敬されないと強く思いますね.
二外科は過酷な医局かもしれませんが,二外科に入った人間がイヤだイヤだと思っているかというと,そうではないと思う.そこに入った人間は,きつい環境でやっている,打ち勝っている誇りがあると思う.医局にも悪い点があったかもしれんけど,医局を解体したことで社会的にも悪い点がたくさん出てくると思う.うちも開業医でうちに来てるのがいるけど……医者が足りないときは医師派遣会社に頼むより仕方がない,そうするとどんな医師が出て来るかわからんわけですよね(笑).こっちのが給料がいいとかなんとか.これだけの医学の教育を受けて国家試験も通って,それで給料のいいところへ行くっていうのは.アメリカはいろいろな国の民族が集まっているからいいけど,ああいうところは逆なんですね.自分で自分を律するというか抑制するというか.やはりアメリカはそれなりにきついと思うんですよ.日本人はそういうのがないもんだから,甘く甘く.
現実問題として,若い人たちがきついところを避けているのをどうするのか,を皆で頭を悩ませ続けているんですが,打開策がなくて.会員が少なくなっていくのは残念な状況です.井口先生に鍛えていただいた我々の世代は理解できるんですが,今の若い子にそういう話をしてもなかなか通じないところがあってですね.だからといってあきらめていては始まらないのでどうすべきか,が大きい問題です.今の我々のような現役の教授はそういうところに頭を悩ませています.他方で,少し話は変わりますが,最近の消化器外科学会の動きの中で,これまでは日本の消化器外科医をターゲットにしていましたが,よりグローバリゼーションを目指していこうと,海外からたくさん会員を獲得したり学会に参加してもらったり,かなり努力しているところです.その中で,嬉しいことに日本の消化器外科学会で活躍している人たちが,きちんとした臨床治験をやり始めて,その臨床治験の成果がNew England Journal MedicineとかThe Lancetとかきちんとしたジャーナルに掲載されて,その情報が世界に発信されているというのが,この10年くらいの流れです.一つの例を挙げますと,国立がんセンターにおられた笹子三津留先生や佐野武先生らが日本の胃がんの郭清の程度と予後がどんな関係にあるか,ようするに胃がんとして標準術式をどうすべきか,これは日本では昔から論じられてきたことですが,世界ではまだそういう概念すらなかったところにもってきて,彼らがきちんとした臨床スタイルを確立した上で成果をNEJMに発表したことで,それを元に胃がんの世界標準,スタンダードはこうあるべきだとアメリカでも認められ,イギリス,フランス,ヨーロッパでも認められたということで,これが日本の消化器外科が最近誇るべき成果と言えます.
オンゴーイングでそういうことをやっているので,学会としてはきちんとした情報を世界に発信していくというある程度の責任を果たしつつあるかなと.まだまだ足りないんですけど,そういう気運は井口先生はじめとした先代の方々が築いてきたアカデミーの上に成り立っている.成熟させていただいたことに感謝しております.

「外科教育については心配です」(井口)

医学は経済に比べ20年近くグローバリゼーションが遅れており,近年ようやく目覚めてきたところがあります.先生はグローバリゼーションに関して何か教えていただくことはありませんか.
井口
1990年から大きく医学の基盤というのが変わってきました.基礎的にいうとすべてのものが分子レベルでリレーしているという考え,もう一つはできるだけ侵襲を少なくするという考え.また,今までは個人で研究データを出していたけれども,ある期間,ある集団といった形でデータをまとめて出すということは,第2期ではできなかったことだと思うんですね.さて,臨床を離れてもう長く経っているのでわからないのですが,内視鏡的に手術をやるということは,局所だけしか見たことのない医師が出てくるということです.広く開けたことのない,全体を見たことのない外科医がこれからどうなっていくのか.外科教育については心配です.
内視鏡外科学会がそういう点を問題視してまして,我々教育するものとしても頭が痛いところなんですが,いわゆる内視鏡をメインにやり始めた時期に外科医になった人たちが手術できないかというと,非常に手術,上手なんですね.ですから必ずしも大きく開けて実際にいろいろ見てこないと内視鏡手術ができないかというと,それはないんですね.ただ,ちょうど私たちの時代から端境期で,大きく開ける手術から内視鏡に移る時代でしたので,私も教授になってから腹腔鏡手術を始めたんですね.始めたんですけど,開腹手術の経験があると,腹腔鏡手術は極めて入りやすいんです.大きく開けてやっていた先生が,そういう手術をすると意外にcomfortable.そこはふんぎりがありさえすれば,移行はしやすいと思うんですが,ただ若い人の教育にとって,内視鏡だけでいいのかというのはわからないのと,例えば内視鏡だけではできない状況が起きたときに,やはり開腹の経験がないと難しいかもしれない.なかなか結論が出ないところです.そうは言ってもまだ2割くらいは開腹でやりますので,それをきちんと見てもらいながら内視鏡もしっかり教えていくというスタンスで当面はやり続けないと.
井口
若い先生方には必ず大きな手術の経験も必要でしょう.
おっしゃる通りで,そのようにやっています.仕組み上,ある程度は参加しないといけないことにしています.例えば専門医をとるときに,そういう手術の経験を見るといった基準を設けています.
 私たちが存じ上げないことをたくさん教えていただき,いたく感激いたしました.先生,本日はありがとうございました.
井口
ありがとうございました.