interview

50周年記念インタビュー
比企 能樹 先生

 第50回日本消化器外科学会総会の会長を務められた比企能樹先生は,消化器外科医として活躍される傍ら,
早期から内視鏡診療にも関わりを持ち,診療科を越えた多くのご経験をお持ちです.
そんな数々のご経験を振り返り,後世への知見とさせていただくためのお話を伺いました.
聞き役は日本消化器外科学会特別会員 渡邊昌彦先生です.

「根本的に疾患を治せるのは外科だろうという考えがありました」(比企)

渡邊
先生は大学を卒業して,もう何年になられますか.
比企
33年卒ですから,何年でしょう.
渡邊
うちの家内が32年に生まれて60歳ですから,61年ですね.当時,いわゆる一般外科医としてスタートされたと思われますが,最初に島田先生の教室に入られたころの先生の志というか,当時,何を目指されたのかお伺いしてもよろしいでしょうか.
比企
私が外科に入ったときに,慶應の外科には呼吸器,消化器,脳神経があり,それぞれ3人の教授がいらっしゃいました.大学院が始まって2年が終わったところで,先輩を見て私は消化器をやりたいなと思いました.
渡邊
先生は外科に入るとき,もう既に消化器を選んでいらっしゃったのですか.
比企
そうです.
渡邊
そのときに消化器を選ばれた理由は何かございましたか.
比企
根本的に疾患を治せるのは外科だろうという考えが私にはあり,やはり外科である以上は勇猛果敢に血を浴びながらやるのだ,と思っていました.広い外科の中で何だろうということになると,毎日使っている胃袋や食道,上部消化管の治療,その頃ではなかなか胃癌も治らず,問題が多かった.ですから,悪性腫瘍の癌とかそういうところに挑戦してみたいなと思い,消化器外科に入りました.
渡邊
当時,胃癌が注目されていましたし,中山恒明先生の中山外科が食道癌手術の分野では世界で雄飛していたので,そういう流れというか勢いが,日本の消化器外科にはあったんですか.
比企
非常にありました.東京女子医大ができて,そして中山先生がいらっしゃるということで,日本の中でもスペシャライズされた大学教育をするだろうと期待されました.はじめ女子医大は心臓が主流でしたから,消化器もやりたいと思われ中山先生を招聘されたという話でした.中山先生は千葉の大学にいらしたころから高名でしたし,私も何回か手術の見学にまいりました.慶應の外科の教室員が,ほかの外科のところに手術に見に行くなんていうのは当時はご法度だったんです.
渡邊
今はもう自由に往来していますが,あの頃はご法度ですよね.沽券にかかわる.
比企
先輩に連れていかれたということで,具体的には前田昭二先生が,手術がお好きで勉強熱心でしたから,大学院の何人かと一緒に連れて行っていただきました.
渡邊
そのころは,世界中から中山先生の手術を.
比企
そうです.私はドイツに留学しましたでしょう.ドイツに行って,消化器の外科をやりたいと言いましたら,「日本には中山がいるな」と言われました.私が向こうへ行った途端にそこの大学の手術場の婦長さんが「中山先生がこの大学で手術のデモンストレーションをされた時に、私が器械出しをやったのよ」と自慢して言われるくらい,中山先生は高名で世界を牽引されていました.
ご存じのように,昔の外科は封建制というか,「うちの外科にいるのに,なぜよそへ見学に行くのか」みたいなことをかなり強く言われたのです.それでも私はもともと上部消化管をやりたいと思い非常に興味を持っておりましたから、他の施設に手術の上手い方がいると聞くとこっそり出かけて行ったのですが、時代的には,1880年代に世界で初めて胃癌手術が成功して、その術式が日本に伝播されたけれども、まだまだ胃癌の手術はほとんど夜明けの状態でした.
渡邊
私が卒業したのが昭和54年ですが,当時,まだシメチジンが出るか,出ないかのころですから.地方の病院は,片っ端から胃潰瘍,十二指腸潰瘍を切っていました.胃切除が外科医の原点で基本になっていました.
比企
確かにそうですね.
渡邊
先生は上部消化管の外科治療を目指されて,その後少しずつ内視鏡治療などにも目を向けられました.胃鏡室を立ち上げられて,早期癌の診断や研究の分野を広げていかれた.そのへんの経緯はいかがでしょうか.
比企
大学院に行きますと,教授のところで一つ一つ専門を学んでいくということになります.最初,僕は,先ほど申し上げたように勇猛果敢な外科医になりたいと思っていましたので,早く手術室に入りたいという夢を持っていました.そのときに島田信勝先生が「君は大学院で内視鏡の検査を習得して,そのへんをやっていったらいい.君は私のところで,上部消化管専門になる」と言われました.これは天からの声,つまり主任教授の一言でやるべき方向が決まったのです.当時は内視鏡は診断の為のものだったので,外科医として本当にこれでいいのかなとも思いました.もう少し外科的な手術の直接の研究分野でいきたいなと思ったのです.したがって,私のテーマはMalignantの胃の疾患ということで,化学療法とか,リンパ節転移など,そういう方向に結果的になったわけです.
その当時の内視鏡はまだまだ硬性鏡で,その後の軟性鏡といえども鉄のパイプの先にゴムが付いていて,ゴムが少し曲がるという程度で,肩に担いで患者さんの体を機械に合わせるような.
渡邊
拷問ですよね.
比企
こんなものやられたくないなと施行者が思う,まさに拷問ですよ.内視鏡でどういうふうにやるのかと興味はありました.実際にやってみると,手術用のベッドのところに患者さんの頭をずっと上に出して,頭がベッドの先に出るくらいまで傾斜を付けて,そうすると頭が下がらないように,われわれ新米はみんな頭持ちなのです.手術用のベッドの高さのところに下に小さな椅子を置いて,「お前はここに座って頭を持て」と.その角度が大事だということはあとで分かったのですが,本当にあれは大変でした.そのときの師匠は,福井光寿先生と前田昭二両先生でした.
渡邊
今から考えると,そのあと我が国の内視鏡が世界をリードしていくわけですが,先鞭を切ったというか,島田先生は将来を見据えていたんでしょうか.
比企
あとから思えば,まさしくそうだと思います.島田先生はあまり多くお話しにならない寡黙な方でしたが,考えていらしたでしょうね.
渡邊
そういう出会いが人の一生を決めることがありますね.
比企
ありますよ.
渡邊
自分の思うところではなかったけれども,妙に導かれるようにその方向に行って,先生は拡大手術,リンパ節転移の仕事をされて,それから低侵襲の内視鏡治療に研究の裾野を広げていかれたわけですね.

創立期の思い出

渡邊
消化器外科学会は今年で創立50周年になりますが,創立当時の思い出はございますか.お話に聞くと,中山恒明先生が有志を集めてこの学会を立ち上げたということです.横浜の山岸先生が第1回で,その頃から先生も消化器外科学会へ関わり,後に会長になられるわけですが,何か思い出されることをお話いただけますか.
比企
今は,外科も非常に細分化されていますね.そんな時代の先駆け,まだまだ始まりだったと思います.最初から,そんな狭いところに入っていくのかなという感じは持っておりました.しかしながら実際にやってみますと,頭持ち一つでも難しい.今になって考えてみると,それが内視鏡外科の始まりだったと思います.
なぜ外科の医者がこういうことをやらなければいけないのかという最初の考え方は,やっているうちにだんだん消えていきました.むしろ逆に食道から胃への入り方や,抵抗はどうかとか,その抵抗を無理やりやると胃が破れるとか,そういうことをいろいろ学びました.まだ胃を破るなよという時代ですから.私が教えていただいた両先輩はそういう点では非常に苦労されて,パイオニアとして食道ならびに胃の内視鏡の検査を確立されたのだろうと思います.本来,内科医がやりますよね.それを外科医がやっているということが,逆に言えば,解剖学的な問題や,そういう点で周知している立場でやると,よりいいのではないかという島田先生のお考えがそこにあったのかなと思いましたが,最初は,どうして内視鏡に行くんだろうという感じが強かったです.
渡邊
そういうゲバルティッヒな仕事は最初は外科医がやらないと,ものは始まらないのではないかと思います(笑).
比企
そうだったかもしれませんね.
渡邊
消化器外科学会ができたのが50年前ですが,50年前は,先生は卒業して10年.
比企
大学院でやり始めたときですが,研究に関しては,私が大学院の時代には,癌の化学療法で,まだマイトマイシンが出始めて,その前のカルチノフィリンという薬がありましたね.それがかなり胃にいいぞという時代でしたから,これもまたなぜ外科医が薬の方向に行くのかなということもちょっと抵抗がありました.先ほどから言っているような,勇猛果敢な外科医を目指して入ったつもりでしたから.しかしながら今考えると,これが全ての点での基礎になってきたのだろうと思っています.
渡邊
内視鏡,さらには内視鏡外科,それから先生が始められた化学療法は,当時はまったく相手にもされないような薬だったと想像されます.地道にこの研究をされていくうちに,化学療法の分野では一角を成すようになったのではないかと思います.
先生は化学療法と内視鏡という二つのツールで,消化器外科を極めようとされたのだと思いますが,消化器外科学会での活動といいますか,関わりはいつごろからでしょうか.
比企
消化器の大学院で,消化器外科学会には必ず入りなさいと言われたんです.
渡邊
消化器外科学会へ入りなさいと,自動的に入れさせられたわけですか.
比企
そうなんですよ.他に臨床外科学会に入りなさいとか,虎ノ門病院に行って秋山洋先生がいらっしゃるので挨拶していらっしゃいとか,そういうことまで指導されましたね.本当にこれを自分でやりたいなという細かいことは,全て教授が先鞭を.
渡邊
先導してくれたということですね.そして消化器外科学会に入ってみたら日本中に沢山の猛者がいて.この先生方と競争していかなければいけなかったということですね.
比企
ええ.その頃は外科医として,どうやったらあのやり方が自分にできるか,どういうテクニックを盗むかということばかり考えていました.最初はそんなことは考えていなかったのですが,とにかくやっていくうちに,なぜ島田先生が内視鏡をやってこいと言われたかわかってきた.大学院は内視鏡をやるんだということで,僕は大学院の3回生で,上の2人の先輩を見ても,いろいろなことをやっていらしたので納得がいきました.しかしやはり最初は直接,外科のメスを持った方法,テクニカルな面で少し離れている感じは否めませんでした.今考えてみると,島田先生のそのお考えはかなり深かったのかなと思っています.
渡邊
消化器外科学会に自動的に入って,消化器外科学会の日本中の人と議論していくわけですね.それで消化器外科学会によって育てられたとか,教えられた,そういうことがたくさんありますか.
比企
あります.
渡邊
それと人との出会いですよね.同じ消化器外科医,同輩とか先輩,そういう意味でも消化器外科学会が先生に与えた影響,得したことや損したこと,いろいろあると思います.
比企
それは大ありですね.やはりやってみろと言われたときは,そこまで気が付きませんでしたし,同じ内視鏡をやるにしても,どういうところに気を付けているのか,どういうところに苦労があるかということを自分で実体験する.またその頃からファイバースコープが出てきたということも,非常に大きな刺激になったと思います.前田先生が米国で実際にそれをご覧になり、確か1本500万円くらいでしたか,それをアメリカから輸入して慶應の外科でも使うことができるようになった.そのはしりだったと思いますが,それ以前は硬い直線の鉄の棒を入れていたのですね.それも下手すると噴門部の穿孔を起こすということで,非常にcomplicationの危険性があった.そういう内視鏡がフレキシブルになっていく経緯も体験しましたし,私としては得るものが多かった.外科医なのにどうして内視鏡だと,大学院のときに感じたものは払拭しました.
渡邊
消化器外科学会に先生が入られたのが大学院のときで,消化器外科学会はまだ小さな学会ですよね.数人で立ち上げられた.中山恒明先生をはじめとする創立者がホテルの部屋で何人かが集まって,では,お前やれみたいな感じで立ち上がっていったわけですよね.恒明先生にはお弟子さんがきら星のようにいましたから,その先生方がバックアップして,消化器外科学会の会員数もその後どんどん増えていったわけです.消化器外科学会が勢力を増していく時代の真っただ中に先生はおられたわけですが,そのころの消化器外科学会の勢いを肌で感じていたと思うし,若い人たちの情熱もあるし,先生方が先導していこうという気概もあったと思います.1980年代から90年代,そのころの思い出はございますか.
比企
そのころからぼつぼつと,組織同士の連携といいますか,こういうことをやっているぞ,ああいうことをやっているぞということで,それを見学に行くということが比較的スムーズになってきた.女子医大に行ったとか,医科歯科大に行ったとか,そういうことで女子医大はかなり進んでいましたね.それよりも前に外科は胸部外科,脳外科などがどんどん独立して分化していった時代でしょう.でも消化器外科の中は依然として昔のままだということに対しては多少抵抗もありましたから,教授から言われたことをだんだんかみしめていくと,自分がこういうことをやらなければいけないかなという点も含めて認知したというか,気が付いてきて,その方向に進もうと思った一つのきっかけだと思います.
渡邊
1968年ですから,今から50年前に第1回が開催されて,日本医学会加盟が76年,懐かしい九段坂に事務所を移転したのが82年くらいです.そのころ,もう先生は学会の理事として活躍されていて,保険診療委員会の委員長もおやりになっていますね.そうやって消化器外科学会を80年代,90年代に育ててこられたわけですが,勢いがついてきている学会をさらに大きくしていこうという,そのころの思い出はございますか.
比企
治療のために診断学が大変大事ということは昔から言われていたことですが,実際に治療学をやろうという立場から、また診断するということはあまり確立されていませんでした.先輩に連れられてどこそこに行けば,この点に関して優れたものを学べるのではないかというのを教わりながら,あるいは自分で文献を調べてみると「お,すごいな」というところがぼちぼち出てきた時代でした.そういうところへ行くという,古い外科教室ではあまりできなかったものが,できるようになってきた.世の中が変わってきたとき,ちょうど私がその中にいたということは幸せなことだったと思います.組織,大学,そういうものを越えた一つの組織として消化器外科学会が果たした役割は非常に大きかったと思います.
渡邊
従来の組織の垣根を超える役割を,学会が果たしたのですね.
比企
はい.研究会から学会になって,会員の多くはそういう気持ちを持って集まった人たちだったのではないでしょうか.
渡邊
会員数1万人を超えたのが84年です.1万人の規模というと,私が関わってまいりました内視鏡外科学会を見ても,大きくなったなという感じがします.その急成長する学会で先生は理事をおやりになっていましたが,そのころの思い出はいかがでしょうか.
比企
当時の技術的な問題が思い浮かびます.技術は進歩していきますから,それぞれ競っていきますね.それが全体として一つの大きな進歩になってきていると思います.今考えると,その中にうまくいくものもあるし,うまくいかないものもあったと思います.しかし,それまでは日本全体を見回しても,そういった相互関係がなかった.それぞれの場所で孤立してやっていた議論が,学会のおかげでオープンにできるようになった.
渡邊
消化器外科の分野においてそういう議論をする場ができて,そこにみんな興味を持って入っていったんですね.
比企
当時,消化器外科は花形でしたから.そういう意味ではパイオニアですね.

第50回日本消化器外科学会総会

渡邊
消化器外科学会でそういう仲間を得て,切磋琢磨して技術を磨き,さらに高みを目指したというところだと思います.そこで先生は消化器外科学会の総会を担当されるわけです.「叡智,実践と兆戦」という学会をされて,その当時の思い出を立派な本にされていますが,今思い返すといかがですか.
比企
ちょうど50回というのは巡り巡ってくることですから,自分からはやろうと思ってもできない.ですから考えてみると,50回,ああ,そうかというところにまず考えがきましたね.もう一つは,内視鏡も外科の手術も基本的な考え方は同じなんだということ.技術的な問題だけではなく,患者さんの取り扱いなどそういうことも含めて,どういうことをやったら一番正確な検査ができるか,正確な手術に結び付くかという点です.それともう一つ,外科技術を高めるために,僕は外科医だけではできないことが世の中にはあると思った.それにはコメディカルが大切と思ったんです.僕は会長のときに,内視鏡に関わるコメディカルのグループを作りました.皆さん昼間は働いている人たちですから,学会が終わる夕方から夜にかけて集まって議論をやりました.今はコメディカルの研究会がありますでしょう.そういった活動のはしりだったかなと思います.
渡邊
当時は消化器外科学会でも宿題報告がありました.先生の会では石川浩一先生が特別講演,それから作家の曽野綾子さんも特別講演に呼ばれていますよね.
比企
曽野綾子さんの文章を拝読して,社会的に一つの問題でいろいろな苦労され,プロセスを非常に大事にされる方だなと思いお願いしましたら,二つ返事で伺いましょうと言っていただきました.それから,もう一つは,専門家になるために,その始まりはどういうところで苦労されるのかなということがあったものですから,外科医としての優れた経験を持った方々にお集りいただいて,これからの学会で基礎になるのはどういうところなのか,どういう点で皆さん苦労されたかをお話いただきたかったというのがありました.そういう意味では,石川浩一先生は外科全般の教授だったし,外科のフレッシュマンとして自分が歩いてきた道をお話しいただいて,大変よかったと思います.
渡邊
先生はライフワークである胃癌治療の多様性,特に早期胃癌治療の変遷について会長講演をされていますが,その思いはどういったものだったのでしょう.
比企
先ずは治療には,正確な診断が不可欠だということです.内科と外科の連携ということでは,内科医に「俺はこういう考えだ」,外科医には「俺はこうする」と言われた患者さんに隣の家へ引っ越すような形であちこちに動いてもらうのではなく,消化器内科と外科がこれからやろうとする治療の方針をどう一致させていくかが肝要であると考えました.学会ではせっかくそれぞれのスペシャリストが集まるわけですから,内科の方も、病理の方もお呼びして,そういうところの議論ができると考え、そういったことを中心にした胃癌治療について話しました.
渡邊
精緻な診断から治療につなげていくということを重視されていて,それを先生は会長講演でお話しされました.消化器外科学会は大きいので,準備した医局員も大変だったと思います.1990年代の終わり頃ですから,当時は色々新しい治療が入ってきていますね.胆石症に対する内視鏡外科が10年くらい前に導入され,それが広がりを見せて,下部消化管,上部消化管でも始まりつつあった時代です.シンポジウムでは内視鏡外科の工夫などをいち早く取り上げておられますし,一方で,高度に進行した癌に対する拡大手術に関してもシンポジウムを組まれておられます.
それから,現在あらゆる病に対して,術前化学療法が注目されていますが,すでに先生の学会ではこれについてパネルでかなり議論されています.斬新で先見性があるなと思いました.このアイデアは何をきっかけに思いつかれたのでしょう.
比企
きっかけは日常の診療の中で気が付いたこと,体験したことですね.私は古い大学を卒業して,新しくできた大学に行きました.そこには全国からそういった方々が集まっていて,まさしく診断と治療の境目で苦労されていた方々も多くおられたわけです.具体的には消化器内科ですね.そんな中で診療をしていくうちに,消化器内科と消化器外科が一緒になって一貫性をもってできれば,もっと素晴らしいことができるなと思ったんです.
渡邊
実地診療で困っていることをそのまま学会での議論の俎上に乗せるということと,この先,どういうことが注目されて問題になってくるのだろうということを,いち早くパネルディスカッションで議論されたのですね.この学会を主催されるうえで一番苦労されたことはどんなことですか.
比企
苦労したのは,まず当時,今のような学会をやる設備,場所がそんなに多くなかった.横浜もようやくパシフィコ横浜ができたばかりの頃で.
渡邊
最近はパシフィコ横浜が当たり前ですが,当時はまだめずらしかったのですね.
比企
それまでは神奈川県民ホールなどを使っていたわけですが,ああいう大きなセンターができた.それが一つの核になって,その周りにいくつか会場ができてくるということで,横浜はそういう点で地の利に恵まれたところだと思いますが,私が会長をやったときはまだまだ始まりでした.先輩がやられたところを見ていて,ここならいいかなと.コメディカルのセッションも会場が取れましたしね.
渡邊
消化器外科でコメディカルのセッションを作ったのは,先生が初めてですね.
比企
先程も言いましたが,医療を行うにはコメディカルの力は不可欠であると思っていましたから.放射線検査技師や,薬剤師のセッションなどをやりました.
渡邊
今でこそメディカルスタッフセミナーをやる学会はいくつかありますが,当時,消化器外科でそれをやったのは斬新だったと思います.内科と連携していくうえで,メディカルスタッフの重要性を先生が認識していたから,そのような会場設定とプログラムが組めたのではないでしょうか.その意味でもすごく先見性のある学会を主催されたなと感服いたしました.
比企
私自身はもともとあまり先見性を持っていないんだよね(笑).ただ,北里大学の新しい病院という環境に身を置かれたということが良かったんだと思います.
渡邊
おそらく全国でも特殊なところだったのだろうなと思いますね.
比企
時代的にもそういう新しいものが始まる時期だったのかなと思っています.

これからの消化器外科医へのメッセージ

渡邊
さて,先生は61年の長きにわたって消化器外科の現場におられたわけですが,先生がこれまでの歴史をご覧になって,将来に向けて,消化器外科学会に対する期待,消化器外科医の後輩たちに贈るメッセージ,期待することなど,忌憚のないところでお話しいただければありがたいです.
比企
内科医や病理医と一緒にやることでお互いの知見がより深くなるということは,実際にやってみないと分からないことでした.今の学会を見ると,だいたいそういう方向に来ていますよね.自分が一番得意とする部分はこれであって,それを取り巻く周辺の,それに協力できる部分はどこなのか.それを一緒にしてやるためにはどうしたらいいのか.こういったことをこれからの外科医の方々にも考えてほしいと思います.
一つの大学,一つの方法,一つのシステムだけではなくて,他のやり方を学んで,ああ,こういうこともやっているんだ,ああいうこともやっているんだということを知っていって欲しい.自分とは異なるプロフェッショナルたちの人柄と治療に関する考え方に触れて,考えを深めてほしいと思います.
渡邊
先生のご経験から,これからの消化器外科学に対しては,いろいろな文化が入ってきて,内科も外科もメディカルスタッフも一緒になって消化器病学というか,一つの疾患を治す.そのためには外科医が中心であった時代というよりも,これあらは領域横断的に一緒になって1人の患者さんに向き合うということを覚えてきたし,これからも消化器外科学を志す人には,その気持ちを忘れないでほしいというメッセージだと感じました.
比企
まったくそのとおりです.東北大学に黒川利雄先生という内科の教授がいらしたでしょう.世界で初めて、集団検診をもって胃癌を早期に発見するという画期的なシステムを日本で導入された方で、後に癌研究所病院の病院長になられました.あの先生のやり方,生き方が,僕には非常に勉強になりました.ご自身は内科医ですが,ご自分が診断されて根治手術になった患者さんについては,必ず手術場に来られるのです.僕はよく癌研に手術を見学に行きましたので,あれ,どうして黒川先生がここにおられるのかなと思いましたが,必ず手術をご覧になっていらしたんですね.
渡邊
私も黒川先生の言葉で覚えているものがあります,内科医も必ずジギタールしろという有名な話がありましたね.
比企
そうなんだよ.これも大事なんです.
渡邊
本日伺った先生のお話の中で,いろいろな文化を持った外科医が集まった教室を見学されたことが印象的でした.こういったご経験にも,このダイバーシティの時代,これからも様々な垣根を越えて消化器外科学を発展させてほしいという先生のメッセージがあったように思います.
比企
おっしゃるとおりです.地域や大学にはそれぞれ色というか,特徴があります.自分が持っていないものを持っている方々と触れ合ってよかったな,素晴らしいなと思うことは多かった.そういった経験を若い方もしてほしいと思います.
渡邊
中山恒明先生の言葉にも「人生は経験である」というのがありますね.先生の人生の長年の経験から,最後に一言いただけますでしょうか.
比企
先生が今おっしゃった中山先生の言葉にも通じますが,違う領域の良さに気づいて,盗むというかよく学んで,そして,それを自分なりに実行するにはどうしたらいいか考えること.別にそんなに難しいことではないと思います.私自身,自分で気が付いて,こうしたらいいなと思ったことが実行できるような場にいたということは,非常に幸せだったと思います.
渡邊
場を与えられたら,悪いことは言わない,素直にやってごらん.そうすると,何か道が開けてきて自分のやりたいことが見えてきて,幸せな消化器外科医生活が待っている,ということですね.
比企
僕は先生を見ていても,そう思いますよ.消化器外科のますますの発展を期待しています.
渡邊
時代はこれからさらに変わっていくでしょうから,ロボット支援手術が導入され,Precision Medicineも入ってきて,一律にリンパ節を郭清すればいい時代ではなくなると思います.食道癌や直腸癌なども化学放射線療法で治癒し,消化器外科医が要らないという癌もかなりでてくるでしょう.先生の専門にされていた胃癌も切除例は減っています.先生が最初にやられた内視鏡は,今や診断のみならず治療のツールになりました.先生や私が目指してきた仕事は,外科医が自分で自分の首を絞めるという仕事かもしれませんが,これからも絞めあげていかなければなりませんね(笑).
比企
そのとおりですね.一見自分の首を絞めていくことが,実は将来への進歩に繋がるのではないでしょうか.
渡邊
それが外科の進歩というと,何か皮肉なものですね(笑).長時間にわたりまして,楽しい,また心のこもったお話を伺わせていただいてありがとうございました.
比企
私のほうこそ,どうもありがとうございました.