interview

50周年記念インタビュー
齋藤 洋一 先生

齋藤洋一先生は早期から日本消化器外科学会の理事を務められ,
第39回日本消化器外科学会総会の会長を務められました.開催当時の思い出や裏話なども交えつつ,
ご経験から消化器外科学会のあるべき姿,将来像などについてお話いただきました.聞き役は齋藤先生の後進であり,
後に第11回日本消化器外科学会大会の会長を務められた具 英成先生です.

理事立候補の思い出

齋藤先生は1992年に第39回の日本消化器外科学会総会の会長をされました.
齋藤
こうやってみると,時のたつのは早いものですね.
早いですね.39回の開催当時,齋藤先生のお手伝いをしたときには思いもよらなかったのですが,自分でも後に大会の会長をすることになったとき,それがずいぶん役に立ちました.先生はいつも,おやじの言うことと冷酒はあとできいてくるとおっしゃっておられましたね.まさにそのとおりで,後からそのありがたさを痛感することが多々ございました.
齋藤
あの頃のことを考えると,今の時代と違って理事になるとか会長になるというのは,なかなか厳しかったですね.少し次元の低い話になってしまいますが,その頃は各大学の系統ごとの縛りが厳しくて,僕は神戸大学にお世話になって10年たたないときに,日本消化器外科学会の理事に出ることを考えたわけです.
というのは当時,東北大学の佐藤壽雄先生,葛西森夫先生から,ちょうどその頃は候補がたくさんいたので「齋藤君は若いけれども,早く学会の会長になりなさい」といわれて,その当時になられた方に比べると若干若かったのですが,それでは出てみようかとなったわけです.
僕より上の方もたくさんおられたし,同じクラスの人もいたのですが,こういう事情でちょっと早めに出ることをお許しくださいと言ったら,皆さん応援してくださって,僕は先生方のところを回って「理事に立候補します」ということで,出たんです.
そうしたら,たまたま僕が理事に立候補した年は人数に若干余裕があって,岡島先生と岡本先生は僕よりも卒業年度が4年上ですが,「僕たちも出ていいか」というので,皆さんと一緒に出たのが最初です.あの頃は理事を4年やって初めて会長をやるという暗黙の約束がありましたから,それを考えて早くにということで,あの時期に出たわけです.教室の皆さん方に,いろいろ応援をしていただいて.
その事情はきょう初めてお伺いしました.確かに齋藤先生が理事に出られて,会長になられるときも年齢的にお若いときだったという記憶があるのですが,そういう裏話があるわけですね.今は理事にせよ会長にせよ,選挙とかそういうことを避けるイメージがありますが,当時はどうでしたか.
齋藤
選挙は毎回でした.なかなか厳しかったです.
では,今みたいに円満ではなかったわけですね.
齋藤
しかも,一つの大学だけではなかなか.
勝てませんよね.
齋藤
だから,どこかと組んでやるというので,ちょうど僕は羽生富士夫先生と掛川暉夫先生の女子医大の票と,慶應の票と東北大の関係の票で出たわけです.いろいろ言われましたよ.一生懸命やりすぎてトップになると,みんなから言われるから,選挙でもトップにはならない.二番手が一番いいと.
私も齋藤教授にご相談をして理事に初めて出たときに,二番手で理事に当選したことがおもしろいなと今思い出しました.
齋藤
世の中には,そういうことがあるんです.例えば競輪で一番前を走る人は,風圧で最後は1番にはなれない.抵抗が多いから,トップにはなるな.2番手,3番手にいろ,と.オリンピックのスケート競技なんかでもそうですよね.そのときに僕はそう聞かせられて,なるほどなと思いました.
スポーツとも共通する部分が多々ありますね.

総会開催までの道のり

齋藤
神戸で行われた第39回総会では「消化器外科における新しい展開 基礎の再認識,根治性とQOL」というのが正式なテーマでした.先生ご自身,神戸らしい学会企画をやりたいとおっしゃっていたのですが,そのへんの思いはどうだったのでしょうか.
齋藤
当時,神戸大学は若干,旧帝大に対してランクが下であると見なされていたので,ぜひそれを押しのけてやりたいと思って,神戸大学のPR,あるいは神戸大学第一外科の皆さんの業績を世の中にぜひ出したいという気持ちがありました.それを中心に考えていこうということで,その一つの表れが特別講演です.
西塚泰美先生でしたね.
齋藤
西塚先生はその頃ノーベル賞をもらうという噂もあったほど高名な先生で,ぜひ出てもらってアピールしたいと思って,会長になる前からお願いして特別講演に来ていただきました.
西塚先生は残念ながらノーベル賞を受賞することができなかったのですが,先生の思いは数十年して,教え子である山中伸弥先生が実現されました.
齋藤
ノーベル賞は生きている人に与えられるもので,西塚先生は早くに亡くなられたから,それが残念なことでした.
さて,総会の会長を務めるには,業績がなければ世の中の人は認めてくれないと思ったから,僕は理事になって4年間,教室の皆さんに少しご負担をかけたけれども,消化器外科学会に毎回15題くらい演題を出し続けました.いざ会長選挙のときに反対といわれたら,うちの教室はこれだけ学会で発表をしているんです,と言えるようにと思って,それをやりました.
当時,齋藤先生が教室員にそういう趣旨を徹底されていたお言葉を思い出します.齋藤先生は学会に対して強い思いをお持ちだったと思います.私などはそれがきっかけで,アカデミアに着実に貢献するのは,学会一つとっても長年の蓄積だということが,あとで分かりました.
齋藤
やはり皆さんがそれだけ努力をなさっている結果だと思います.
そういう努力を齋藤先生がうまく引き出したのだと,私も教授になったあとで感じ,勉強になりました.
齋藤
ちょっと余談になりますが,僕は神戸に来る前,東北大学では学園紛争で外国に行けず,大学を辞めなければ留学はできないというのがあってチャンスを逸していたのだけれども,助教授になったときに「君,いっぺん海外を見てくればいい」といわれてアメリカに医学教育を勉強しに行ったんです.
1か所のデパートメントにいると,今さら研究をやっても遅いだろうから教育を見ていらっしゃいといわれて,アメリカで1週間から10日くらいかけて,各デパートメントを見ることができたわけです.そのときに医学教育はどうあるべきか勉強できたものですから,神戸大学に来て,それを実行した.
実践されたわけですね.齋藤教授の教育に対する思い入れというのは学会ともリンクするところがありますが,私は長年,先生のところで教育係を務めていて,先生の臨床講義のテーマも15~16題あったと思うのですが,今のお話を聞くと,そうやって諸外国の教育事情も取り入れながら神戸で実践されたんだなと思いました.
齋藤
講義の前に試験をしたでしょう.10問ぐらい出して,それに答えてもらって,すぐに採点をして,みんなが知らないところを講義するというのを基本にしたわけです.
齋藤先生,招待講演はいかがでしたか.
齋藤
3人,外国の先生を呼びました.一つは膵炎で,あのとき僕は膵疾患の班長をやっていまして.
全国集計の事務局をやっていらっしゃった.
齋藤
集計もやったし,膵炎の診断基準もつくりました.招待したEdward L. Bradley, III先生は世界の膵炎シンポジウムをやった人なので,会長講演に合わせて選ぶというので,そのBradlyさんが1人.それからNutritionalは,前の光野先生以来,代謝をずっとやっていましたから,その代表の方としてLloyd D. Maclean先生をお呼びするのがいいのではないかとお呼びしました.もう1人のL. William Traverso先生はちょっと意味が違うんです.僕が医学教育はどうあるべきかというのでアメリカを歩いていたときにUCLAを見に行ったら,彼は実験をやっていまして,僕にお昼をごちそうしてくれた.アメリカ人は普通お昼にごちそうはしないんですよね.それで感激して,僕が日本で会長をやったときには君を招待するよという約束をしたんです.
それを実現したということですね.
齋藤
それ以来,Traversoさんは日本に関心をもってくれて,肝胆膵外科学会の人が招聘してくれたりもしましたね.
実際,PPPDというのも,Traversoさんとともに,まさに齋藤先生が呼び水になったと私は記憶しているのですが.
齋藤
僕が行ったとき彼が何を実験していたかというと,膵島,ラ氏島を分離して,それを門脈から入れて,肝臓や脾臓で生着するということをやっていたんです.それを僕は見せられて.帰ってきて,膵島移植をしようとみんなにやってもらった.
私も知らなかった部分をお話いただいて,まさに縦糸,横糸がつながったことがいくつかありました.
齋藤
思い出すと,いろいろありますね.懇親会のときは歌手の菅原洋一さんに歌を歌ってもらった.水本先生が会長のときに伊東ゆかりさんを呼ばれていて,水本先生にライバル意識をもっていましたから,それに負けないようにというので,菅原洋一さんは兵庫県の出身で,私は洋一で一緒だから,それで呼んで,やった記憶があります(笑).そういうのが思い出ですね.
こういった催しは評議員の先生方,関与される先生方も結構楽しみにされていますよね.だから,会長ごとに特徴があって,まさに菅原洋一さんの歌も含めて39回のいい思い出です.
齋藤
昔はそういう意味ではよかったですね.ただ,戸部先生が外科学会で会長をやられたとき,僕の家内も呼ばれて行っていましたが,僕たちが別のところに飲みに行っているときに,花火を上げていました.そうしたら若い会員が「俺たちの会費が花火になってる」と言っていて.家内に「お父さん,こういうことを言う若い人がいるから気を付けなさい」と言われました.だからやはり,お金の使いようですね.

当時と現在の学会を眺めて

第39回の日本消化器外科学会総会を担当されて,今思うことはありますか.
齋藤
今度開催される消化器外科学会総会を見ますと,バラエティに富んでいますね.
テーマが多岐に及んでいるわけですね.
齋藤
会長講演,理事長講演をはじめ,これだけのセッションを網羅している.会長という立場だと,こういうことができるわけです.
やはり会長の専権事項ですからね.
齋藤
私が会長を務めたときは,当時の理事の方々と相談したけれども,まだ時代が違うために,こういうことは許されなかったですね.僕が理事になって2年目の,青木先生が会長のときに,当時,消化器外科学会は任意団体でしたから,それではだめだ,世間に認められるためには法人になるべきだと僕は主張したのですが,そのときはみんなの反対で,時期尚早だと否決されました.あのときはそうだったですね.僕は外科学会の役員も,消化器外科学会の役員もやって,それまでの任意団体だったものをある程度整理したものですから,こうあるべきだなと思い,主張したことがあります.
実際,消化器外科学会が法人格を取得してから,他学会にもそういう動きは大きく広がっていったように思います.例えば胃癌学会や,最近でいえば私も日本肝癌研究会を肝癌学会にしようと思って一生懸命やったのですが,任意団体のほうがハンドリングが自由だということもあるのですかね.
齋藤
それはありますね.それを理由に否決されました.
私の経験でも,他学会でかなりのところにいっても,なかなか内科と外科の思惑がうまくいかなくて頓挫したこともありましたが,そのへんで齋藤先生がおやりになったことは,他学会にも今でも大きな影響を及ぼしていると思います.例えばJDDWはまさに先生が大きくかじ取りに貢献されたことですし,今は大事な消化器病関連学会としての役割も大きくなっています.そのへんのこともつながっているわけですね.
齋藤
JDDWは消化器病学会がベースになっていましたが,もともと消化器病学会は封建的な学会だったんです.初めに各支部が先にできて,その支部が集まって大きな全国的な組織になったので,財産も各支部が持っていた.それを統一するのが大変で,僕は消化器病学会の財務担当理事をやったときに,それが一番難しかったですね.皆さん,自分の財産を差し出して統一するというのには抵抗がある.
だけど,その当時の消化器外科学会の法人格もつながって,今日の合理的な枠組みが出来上がっているわけですね.
齋藤
言ってみれば,医師というのは特殊な職業ですから,ある意味で社会人として足りない部分をたくさん持っている.今はそういった部分も指摘されるような時代になってきていますね.
今では当たり前ですが,先生が39回をおやりになった時代には,まだまだそういう認識が医師,とりわけ外科医にも希薄だったように思います.例えばJDDWもそうなのですが,日本消化器外科学会,胃癌学会,内視鏡外科学会,内科系だと消化器病学会,消化管学会,内視鏡学会とかいろいろありますよね.このへんの棲み分けは,今後どのようにしたらいいのでしょうか.
齋藤
1960年代にそういう会がたくさん出てきたんですね.そのときに中山恒明先生をはじめ創立者の方々がご相談されていたのは,消化器病学会は内科が主体であって,外科の人たちはメインではなかった.それに対して,どうしても外科特有の内容があるからというのでつくられたと聞いていますが,まさにそうだと思います.
今でも,消化器病学会は学会誌を見ても大半が内科系です.これは『日本消化器外科学会雑誌』があるから,外科の方はこちらに出されているからやむを得ないと思いますが,そういう傾向は前からありました.それで僕が消化器病学会の役員になったときに,外科の人を理事にたくさん入れてくださいということをやりました.
今でも外科は少数派ですが,それでも外科が関与しているのは,まさに齋藤先生のそういう足跡の延長上にあるのではないかと思います.
齋藤
ただ外科は,どうしても手術手技がメインになります.これは内科医には手が届かない.今は内視鏡で少し混在してきていますが.
ずっと昔,ロンドン大学の外科のホワイト教授という方が,当時はいろいろ名前のつく術式がさかんにあったので,1905年に自分が外科の学会をやるときには手術はすべての方がやっていて,私たちはもうやることがないと慨嘆された,ということが雑誌に残っているんです.でも,そのあと外科はすたれたかというとそうではなくて,ますます盛んになった.例えば麻酔,輸血,あるいは周術的な診断法であるとか,そういうものをどんどん取り込んでいって立派になっていった.
ある意味で,総合的な学問になりましたね.
齋藤
だから,消化器外科もこれからはそういう周辺の科学の知識をどんどん取り入れていくことによって,まだまだ発展の余地があるのではないかと思います.
それに関連しますが,今はまさに技術オリエンテッドになって,学問や研究という要素が若干薄くなっている時代ではないかと思うのですが,齋藤先生からご覧になって今後はどのようにかじ取りをしていけばいいとお考えですか.
齋藤
消化器外科学会は,評議員の業績の積み重ねでできています.これはそれによって若い人がどんどん勉強していくという一つの励みになっているので,消化器外科は伸びていっているのではないかと思います.ただ,技術的なところだけになると少し問題が残りますから,その点,どうやって指導者の方がやっていくか.
今の段階では専門医制度にも学術活動をきちんと位置付けようという流れがありますが,そういうところで技術と研究と将来に向けた開発力というか,展開力を維持していくことは学会の足腰になるということですね.
齋藤
そのためにも,僕が2代目の理事長をした肝胆膵外科学会は,若干技術に走りすぎたところがありますよね.あの学会をどうやって伸ばしていくかというと,技術だけではなく,そういう知識,アートの部分をどう膨らましていくかということがこれからの課題でしょうし,消化器外科はまさにその大本ですから必要になると思います.
まさに私も肝胆膵を専門領域にしていて,消化器外科学会と肝胆膵外科学会の役どころをどう折り合いをつけていくかというのは,今後の大きなテーマだなと思う瞬間が多々あるのですが,いかがでしょうか.
齋藤
今そういうことを指導する力を持つ人が出てきていますから,例えば会長を選ぶときにそういう認識を持った方を皆さんが選んでいくことが大事かと思います.
悪い言葉になりますが談合のようなことをするのではなく,真剣勝負で会長を選んだという思いというか,選挙の仕組みをきちんと生かしていくことが大事ですね.
齋藤
そう思います.

これからの学会の役割

先生が今の消化器外科学会に対して思うことや,やり残しされたこと,あるいはこれをやりたかった,ということはありますか.
齋藤
今の医療知識は専門的に非常に深いところがあるでしょう.それをすべて網羅するのはなかなか厳しくなっていると思います.だから,そういう点では教室を1人の教授で全部取り仕切るのではなくて,いくつか細分化した教授をもってきているというのはいいと思います.先日の新聞に,岐阜大学と名古屋大学が法人統合するとありましたね.
経営上の統合が行われるということでしたね.
齋藤
僕は大阪に行っていますから,大阪大学の先生から,神戸大学は大阪大学と統合するということをどう考えていますかと,時々いわれます.
どうしたらいいのでしょうか.
齋藤
それは神戸大学から言い出さないと,大阪大学から言われると,そこに吸収されるのはいやだと神戸大学は思うから,神戸大学の人たちがそういう方法をやっていく必要があると思います.
かなり思い切った提案やかじ取りがいるということですね.
齋藤
関西一円で,大阪大学はもちろん,京都大学も一緒の大学になることもあるかもしれない.今,神戸大学病院の病床数は何床ありますか.
930床だと思います.
齋藤
これからはそれだけの数の患者を一度に取り扱うような時代にはならないと思います.人口が減ってきているので,もっと少ない,例えば3分の1くらいのベッド数でやらなければいけない.そういうときには神戸大学の特殊性,大阪大学の特殊性,京都大学の特殊性を1カ所にまとめて運営して,研究もそういう形でやることを考えていかないといけない.そこで学会が果たす役割というのは,音頭取りをすることではないかと思います.
まさに学会が将来に対する見識をもって,いろいろな枠組みを含めて将来の医療構造,教育制度,そういうものを引き続き提案していくだけの見識,体力を維持することが大事だということですね.
齋藤
そうだと思います.最近の理事会でどういうお話をされているか知りませんが,僕たちのときは競争が非常に多かった.例えば僕自身は,三重大学の水本龍二先生と膵臓学会をつくるときにいろいろ競争しました(笑).水本先生には負けないようにすべきだといって,確か消化器病学会のときも,水本先生のところの演題にはみんな1人ひとり質問をしなさいと.
ありましたね(笑).
齋藤
そうしたら翌年,それに気が付かれて逆にやられたこともありました(笑).これからはそういう単なる競争ではなくて,もっと大きく眺めた場合の切磋琢磨をお互いに考えていくべきでしょうね.
高所から俯瞰するような包括的な提案やかじ取りで,学会は今後,以前よりますます役割が大きくなるということですね.その職責というか任務というのは,今後,学会が意識して取り組まないといけないですね.どうしても理事になり会長になりで,学会を主催することで精いっぱいになってしまいがちですが,社会的に医療制度を考えて提案するという余力がまだまだ求められると思いました.
齋藤
もう一つは学会として,もちろん研究が主体になりますが,対象である患者さんのために,どうあってしかるべきか.これはある時点から,QOLがどうであるか検討するようになりましたが,患者さんのためにどうすべきかという問題も,学会の目的としてありますので,重要視する必要があると思います.
もっと優先度を上げるということですね.
齋藤
ええ,そういうことは必要かなと思います.
患者本位ということ.そういう意味では私たちが齋藤先生に教えを請うたときには,学位と専門医と比べてみれば,学位のほうがまだまだ足腰が強かった時代だったのですが,今はどちらかというと専門医のほうに比重が移ったのではないかと思うときがあります.そのへんは今後,どのように推移するとお考えでしょうか.
齋藤
専門医制度は国民の医療のためにあるべきだと思います.ですから当然,専門医の内容は国民が誰でも知っているようなものになるべきだと思うし,学位のほうはもっと専門家として特殊性がある内容であっていいと思います.
そのへんの住み分けと積み上げですよね.それに関連しますが,例えば今の日本の専門医制度は基盤学会があって,それから2階部分がある.そう考えると,例えば肝胆膵外科学会とか胃癌学会,消化管学会,内視鏡外科学会などを重ねていくと,3段階,4段階になるわけですよね.
ある意味,外科医不足がこれだけ言われていて,自分の首を絞めるような仕組みになるのではないかと思うのですが,適度な専門医制度の積み重なりというのはどのようにお考えでしょうか.
齋藤
例えば肝胆膵外科学会の高度技能専門医の議論をしたときに,特殊で高度な技能の対象になるような患者は日本にどのくらいいるかという予測をしたら,高度技能専門医が700人いれば今の日本の患者さんは全部対応できるという答えが出た.だから,特殊な非常に高い技能のところはある程度,人数で限定して,そこで歯止めをかける.
あのときに問題になったのは,年を取った教授は実際の手技をやれないでしょう.そういった人はどうするかというと,今は名誉高度技能医になりましたが,国民からするとそう言われてもよく分からない.「名誉」がついているから,高度技能より上なんじゃないかと誤解をする.実際には高度技能医のほうがテクニックは上でしょう.そんな間違うようなものは,患者の立場からするとつくるべきではない,という意見を聞いてなるほどなと思いました.そういう考えを医師は持たなかったけれども,一般の人たちは持っている.それに応えるようなことを学会でもやっていかなければならないと思いましたね.
そうすると,あまり積み重ねて訳分からない状態になるより,専門医制度というのは2階建て分ぐらいで考えるべきでしょうか.
齋藤
3階建てでもいいですよ.3階建ての3階部分は限られた分野でしか活用できないということですね.
そこの組み立てを大所高所から考えていくことも,消化器外科学会の役どころではないかと思いました.
齋藤
日本の医療は経済的に国に統制されています.これは国民皆保険である以上,容易には崩れないと思います.そうすると,それに応えるためには点数と直結する専門医でないといけない.だから,非常に高度なものは限られた施設,あるいは人で管理する.そこには高い点数を与えてあげる.今はそうではありませんからね.
先生のご経験から,学会の果たすべき役割まで,大変勉強になるお話をしていただきました.ありがとうございました.
齋藤
ありがとうございました.