50周年記念インタビュー
鍋谷 欣市 先生
鍋谷欣市先生は現在御年90歳を迎え,50年前,
まさに本学会の創立時から精力的に活動に関わってこられた方です.
先生のご来歴や,学会創立時の思い出,外科医として試みられた活動など様々なお話を伺いました.
聞き役は日本消化器外科学会理事 正木忠彦先生です.
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語り手:鍋谷 欣市
日本消化器外科学会 名誉会長 名誉会員
日本消化器外科学会第30回総会会長
杏林大学 名誉教授 -
聞き手:正木 忠彦
杏林大学医学部第一外科(消化器・一般外科) 教授
日本消化器外科学会 理事
- 正木
- 先生,ぜひ若いわれわれに大所高所からのお言葉をいただければと思います.私もこういうことは慣れていませんので拙いインタビューになるかと思いますが,よろしくお願いします.
- 鍋谷
- よろしくお願いします.
- 正木
- まず先生が日本消化器外科学会とどのように関わってこられたか,ということからお聞きしたいと思います.先生は1987年の7月,国立教育会館にて,第30回の日本消化器外科学会総会を主催されておられます.ずいぶん昔のお話かと思いますが,その当時の思い出などありましたらお話しいただければと思います.
- 鍋谷
- 1987年というと昭和62年で,昭和の終わりの頃ですね.霞が関でやりました.もうずいぶん昔のことですが,いろいろな臓器にわたるプログラムを作りました.この頃は僕は杏林大学の第二外科で教授をやっていて,そこで総会をやったわけです.
- 正木
- 1987年7月の2日ですね.やはりそういう伝統ですか,今も総会は毎年7月に開催されています.今年は7月の中旬に,鹿児島大学の夏越先生が開催します.
- 鍋谷
- 夏越祥次先生ですね,知っています.
- 正木
- 消化器外科学会について,何か「これは」といった思い出などがありましたら教えていただけますでしょうか.
- 鍋谷
- 僕は編集委員長をしていました.日本消化器外科学会雑誌の2代目の編集委員長ですね.その頃としては若い年齢で委員長になったかと思います.その後,14年ほど務めましたでしょうか.
- 鍋谷
- それと,これは日本消化器外科学会を創立した頃ですが,役名もつかないような仕事をとにかくいろいろやりました.
- 正木
- そうですか.創立の頃のお話となりますと,本当に最初の最初ですね.当時のことをお話いただけますか.
- 鍋谷
- 当時,消化器の学会があるなら消化器外科の学会を作ろうということになり,これを作りかけた時に僕がいろいろ働いたのです.
- 正木
- それは1960年代ぐらいのお話ですね.1968年に,日本消化器外科学会の第1回の総会が横浜でありました.
- 鍋谷
- その頃は僕が幹事のようなことをやっていたのです.
- 正木
- 第1回の日本消化器外科学会総会は,横浜市立大学の山岸三木雄先生が会長となって行われていますね.
- 鍋谷
- ご高齢でしたから,第1回総会は山岸三木雄先生が務められました.ただ,僕は本当は,会の創立に尽力された中山恒明先生が第1回の会長をやるべき人だったと思います.
- 正木
- 中山恒明先生は第3回の総会長をされていますね.
- 鍋谷
- この頃僕は千葉大学にいまして,千葉大学の外科医たちで協力して総会の仕事をしていたように思います.
- 正木
- 中山恒明先生は会の創立に最も尽力された方ということですが,鍋谷先生はその事務局長のような感じで活動されていたのですね.そういう新しい学会を作るということは,相当なご苦労があったのではないでしょうか.
- 鍋谷
- はい,いろいろなことを忙しくやりました.当時は消化器の分野で今のような外科の学会はなかったですからね.消化器外科の学会をやりましょうということになると,中山先生やほかにもいろいろな方から「あれをやれ,これをやりなさい」と言われました.井口 潔先生や,葛西森夫先生といった方々が若手だった頃です.僕は40くらいの頃だったと思います.その頃は千葉大学第二外科の医局長をやっていたのです.僕と慶應大学の掛川暉夫先生と,あと名前が出てこないんだけれどももう一人,の三人が中心になって,日本消化器外科学会の基礎作りの実務をやらされました.
- 正木
- それは大変なご苦労があったと思います.そして,1968年に第1回総会が行われ,その後,中山恒明先生が第3回総会をやられて,そして,先生が第30回をおやりになったということですね.どうでしょうか.消化器外科学会は,当時から順調に進歩・発展してきているでしょうか.
- 鍋谷
- 随分発展してきています.当時はとにかく掛川と僕が一番働かされましたが,その学会が今も発展を続けていて,苦労の甲斐もあったかと思います.
- 正木
- 最初は消化管というところがメインで目指されたのですか.
- 鍋谷
- 消化器がんその他を多く取り扱っていたけれども,全体に消化器病という広いくくりで作ったのです.
- 正木
- 広く,ですね.そうするといろいろな臓器と,それから多岐にわたる疾患ですか.
- 鍋谷
- はい.消化器がんだけではなくて,消化器管に関する病気を全部扱ったのです.
- 正木
- そうすると,その中から次第に肝臓とか膵臓とかそういう病気もカバーする役割をされていたということですか.
- 鍋谷
- 消化器の一部を扱うという意味ではなく,消化器全体の病気を扱うというつもりでやりました.つまり,消化器病です.
- 正木
- かなり幅広い概念です.それを消化器病学会とは別に,外科医主導で作られたということですね.
- 鍋谷
- そうです.消化器外科学会,消化器病を対象とした外科の学会というのを作ったのです.
- 正木
- やはり外科医が学会をすることに意義があると,そのようにお考えになったのですか.
- 鍋谷
- 外科に関することは外科医でないと分からないことがいっぱいあるわけです.学会の設立前からそういった声や取り上げる活動がなかったわけではないですが,それをしっかりとやろうかと言いだしたのは,中山恒明先生をはじめとする創立メンバーの先生方でした.
- 正木
- なるほど.そこはすごく先駆的というか,卓見だったわけです.
- 鍋谷
- 学会をやり始めた最初の時期です.
- 正木
- 分かりました.編集委員長も長年にわたって先生はお務めになったと伺っていますが,その辺りは何かご苦労などはありましたか.
- 鍋谷
- もう学会全体を設立する実務作業を行いましたから,最初の頃の編集作業も全部僕らがやりました.
- 正木
- 鍋谷先生ご自身の業績やご活躍についても伺いたいと思います.先生は千葉大学から杏林大学に移られて,食道だけではなく,いろいろな臓器の手術をなさったと伺っていますが.
- 鍋谷
- そうです.その時は外科全部を見なくてはいけないから,全部やっていました.
- 正木
- 全部だったのですね.全ての臓器の手術に関わっておられた.千葉大学の時からそのようにされていたのですか.
- 鍋谷
- 千葉大学ではある程度分担が決まっていて楽だったけれども,杏林大学では全部やらなくてはいけないのです.総合的に,外科全体を引っ張っていかなくてはいけないわけです.
- 正木
- しかも新しい大学ですから,先生,いろいろご苦労があったでしょう.
- 鍋谷
- 他にやる人がいなかったのです.僕が外科全体を引っ張っていかなくてはいけなかったので.だから,何も食道に限ったことではないです.消化器外科を全体をひっくるめて,消化器に関する外科系の病気全部をやっていたのです.
- 正木
- そんなご活躍の中でも,先生のご業績の中ではやはり食道疾患が非常に大きいと伺っています.
- 鍋谷
- 食道から始まりましたし,それから肝胆膵のほうもやっていました.
- 正木
- ほとんどやられていたと.
- 鍋谷
- 食道と胃と大腸も,消化器全体をやりました.つまり消化器の外科をやっていたわけで,食道の外科をやっていたわけではないのです.消化器に関する病気全部をやっていたのです.
- 正木
- あと先生のご業績の中では,外科治療と漢方,というテーマも重要かと思います.千葉大学におられた頃から関わっていらっしゃる漢方の研究会があったそうですね.
- 鍋谷
- はい.奥田謙藏先生の奥門会(おくもんかい)といいます.設立は昭和30年頃ですね.
- 正木
- 第一回の奥門会会員名簿に鍋谷先生のお名前が入っていますね.昭和30年頃といううと,中山恒明先生の方向性とは別に,鍋谷先生は漢方を学んでおられたのですか.
- 鍋谷
- ええ.奥門会は実際,中山研究会と直接は関係なかったです.
- 正木
- 何がきっかけで漢方に興味を抱かれたのですか.
- 鍋谷
- 私は奥田謙藏先生の漢方で最初の弟子なのですが,そこで外科系にも漢方を取り入れましょうと言ったのは僕なのです.それまでは内科系のみで,あまり消化器外科に漢方を取り入れようという意向はなかったのですが,消化器外科に少し入れようではないかということになりました.僕は奥門会ができる前から奥田先生について勉強していて,奥田先生に消化器病の学会を作りましょうと言ったのが昭和25年です.
- 正木
- 先生が奥田謙藏先生に弟子入りされたきっかけは何ですか.
- 鍋谷
- 僕は学生の始まりの頃から奥田先生に弟子入りしていたのです.奥田先生は漢方専門ですので外科とは直接関係なかったのですが,僕は外科を学びながらも,奥田先生に付いて漢方を勉強したいということを言って,そして奥田先生に許可を得て,そこから外科系の漢方の学びが始まったのです.
- 正木
- そこで奥田先生に弟子入りされた,巡り会われたということが,ずっと続いているわけですね.外科医でいろいろな臓器を専門とする医師はいますが,漢方に興味を持って,この2つをやろうという人はなかなかいません.当時は内科的治療と思われていた漢方を外科に取り入れたのはすごい卓見だと思うのです.
- 鍋谷
- 消化器手術の前後に漢方を取り入れて取り入れていこうという考えが始まりです.
- 正木
- そういう試みは世界でも類を見ないものだと思います.素晴らしいです.
- 鍋谷
- だから,その頃奥田先生に付いたのが,私の漢方学問の始まりですね.
- 正木
- 学問として究めるということですね.先生は実際に診療に漢方を取り入れておられたということですか.
- 鍋谷
- 使っています.ただ,当時,漢方の勉強は直接大学で講義をやるというわけにはいかなかったので,奥門会はいわゆる小さな研究会でした.
- 正木
- 奥門会ではいろいろな漢方医学の古典を学んでいたそうですね.「傷寒論」などを勉強されていたとか.
- 鍋谷
- ええ.そういった勉強をみんな奥門会でやっていました.
- 正木
- 先生,今まで消化器外科学会に関わってこられたご経験や,先生の業績についていろいろとお伺いいたしました.もう少しだけお時間をいただいて,この学会自体のこれからの在り方について,忌憚のないご意見をいただけたらと思いますが,いかがでしょうか.
- 鍋谷
- 創立に関わった僕としては,この学会ができた頃の歴史を振り返ることは必要だと思います.学会の歴史を振り返らないと,何も進歩はないですから.
- 正木
- 歴史をまず振り返ることが大変重要だというお話ですね.学会創立50周年ということで,第73回日本消化器外科学会総会では会長である鹿児島大学の夏越祥次先生が,この50年を振り返るお話をされるそうです.そういうタイミングで今回先生にお話を伺えて光栄です.先生に今日教えていただいたことをこの7月に反映できるように私も頑張ってまいりたいと思います.鍋谷先生たちが始められた最初のところから,少しずつ学会を大きくしていただいたということを記録としてやはり今残しておかないといけない.この学会の歴史や立ち位置を,これから次の世代に伝えておかないといけない.先生がおっしゃっているのは,そういうことだと思います.ありがとうございました.
- 鍋谷
- ありがとうございました.