50周年記念インタビュー
岡島 邦雄 先生
御歳89歳になられる第42回総会会長,岡島邦雄先生に,会長時代の苦労話やユーモアあふれる裏話,
後輩に伝えたい「外科医の教え」までを幅広くそして熱く語っていただきました.
聞き役は,学会50周年となる記念すべき第73回総会会長,夏越祥次先生です.
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語り手:岡島 邦雄
日本消化器外科学会 名誉会長 名誉会員
日本消化器外科学会第42回総会会長
元・大阪医科大学 一般・消化器外科学 教授 -
聞き手:夏越 祥次
鹿児島大学消化器・乳腺甲状腺外科学 教授
日本消化器外科学会 第73回総会会長
- 岡島
- 僕は第1回から消化器外科学会に出ていますわ.それで,ちょうど設立趣意書を出した頃に,僕は助教授になったの.その時の発起人を見たら大御所の3人,梶谷鐶先生,中山恒明先生,陣内傳之助先生.この人たちが初めてやったんですね.北海道から九州まで,それ相応の人たちをピックアップして発起人にして.僕はその時を知っています.僕が入局した時に教授だったのは陣内先生ですが,38年に陣内先生は阪大に行って,その後の田中早苗先生が発起人になったわけです.田中先生はその後第4回総会の会長になりました.
僕が会長をやったのは平成になってからの,42回ですから. 1993年やからもう24年前や(笑).ところで,裏話してもええの?(笑) - 夏越
- どうぞ,もう何でも.まずいところはカットしてもらいますので(笑).
- 岡島
- もうその当時のことは全部時効じゃわ(笑).僕が会長になった時は24年前ですからね.平成5年.あの時は,もう何が大変かいうたら,金集めが大変や.その頃は自分で金を集めないかんから.だから薬屋を回ったよ.大阪やから,道修町.道修町ってご存じですか.知らんでしょう.薬問屋が集まっている町です.タケダにしたってシオノギにしたって皆,あそこら辺にずっと並んでいます.僕は1日休んで,頭を下げて回った.そうしたら向こうは「来てくれんほうがええ」って言うた.そらそうやわね(笑).だけどその頃,僕はたくさん集めたんですよ.だけども,自分のところでは,医局員も私もお金にはもう全然タッチしない.税理士を雇って,これを窓口にした.そこへ全部集めて,それでそこから全部出した.われわれは,ただ,どこから幾らもらったというのを見るだけで,現ナマなどというのは見たことはない.それが,終わったら余ったの(笑).余って,どないしようかいう.余るのも困るから.足らんのも困るけれども.それで,余って何をしたかいうと,税理士が大学へ寄付しなさいと教えてくれた.大学へ寄付したら,もう自分のところのもんではなくなってくる.公的なところへやれと.そして,大学で研究費としてもらいなさいと.
- 夏越
- 入れて,元の自分のところに返ってくるわけですね.
- 岡島
- 返った(笑).あの頃は何かいろいろ言われたけれども,われわれのところはもう全然何も.公明正大であったから安心していましたけれどもね.
- 夏越
- 昔はコンベンション運営会社が,あまりなかったんですね.
- 岡島
- 日本コンベンションサービスという会社は当時からありました.僕は,臨床外科と消化器外科と2回学会をやりました.
- 夏越
- 私は両学会とも覚えています.参加しましたので
- 岡島
- それで,その会社に全部頼んだの.だけど医局員もよく働いたけれどもね.先に臨床外科学会をやって,それから,消化器外科学会.その時に,教室から演題募集を出さなんだ.1題も出さなんだ.裏方に徹した.あんなしたところはあまりないよ.
- 夏越
- うちもしましたよ.うちも,愛甲先生がした時に,教室は全部ストップして.もう学会に徹するということで.多分,先生方の流れをくんでいるというか.今したら怒られますけれどもね(笑).
- 岡島
- みんな自分のところの宣伝をする.自分のところで演題をセレクションするでしょう,そんなの勝手に選べるわけです.自分のところをPRしようと思ったらいくらでもできるわけ.しかし,それは快しとしなかったんやね.変に力んだんやな,あの時は(笑).
- 夏越
- やっぱり気合が入っておられたんですね,気合が(笑).でも,あの頃はそういうところが多かったんじゃないですか.他大学の演題を採用して,自分たちは裏方に徹するというのが.
- 岡島
- それは僕も,他大学もそのようにしとるから,うちもそれをやろうということですわ.そうだ,そのほうが潔いと思ったね.だけど,苦労はしたわ.変に疑われて刑事事件のようになったら困るからね.大学でそんなことになったら困るから,もう必要以上に清潔さを出した(笑).
- 夏越
- あの頃はまだいい時代ですものね.うらやましいぐらいです(笑).
- 岡島
- 今の教授はかわいそうだと思います.当時は金を集めるというのは,それはしんどいけれども,集まる.それで,もういくらでも使えたからね.だから,全員懇親会などでも,ロイヤルホテルの2階3階を借り切ってやりましたから.いい頃にしましたよ.
それで,奥さんたちの会がありましたわな.夫人の会です.夫人の会は,3日間全部遊びに行った.宝塚を観にいったり,京都へ行って瀬戸内寂聴さんの話を聞きにいったりね.皆さん,車で.今はあんなことはできません.それで,晩は京都の料亭で,大阪でやった時には大阪の吉兆で宴会です.あの時に一緒に行った奥さんたちが,まだ生きとるのが割にいるんですよ(笑).「あの頃は良かったですね」と皆さん言いますなあ. - 夏越
- 先生が担当された第42回総会のシンポジウムやパネルのテーマですが,先生は胃がんがご専門でしたけれども,どのような思いで決められましたか?
- 岡島
- あの頃一つの学問の流れは,molecular
biology.分子生物学の仕事がもうだんだん出てきだしたんや.その時に,広島の田原榮一先生という病理の教授に特別講演をしてもらいました.がんの分子生物学というのはもう皆やっていました.
それからもう一つは,この前お亡くなりになった日野原重明先生.あの人が,デス・エデュケーションという話をされました.人間は生まれたら,必ず死ぬのだと.死ぬということの心構えをする教育が必要だと.だから,がんの告知ということになってきた.がんの告知を最初にに強く言いだしたのが,日野原重明先生です.
それと,当時のがんセンターの笹子三津留先生.笹子さんが,がんというのをどんどん言いだした.その時の一つの流れとしては,告知するという派と,告知しないという派があった.告知しないというのは,いわゆるパターナリズム.パターナリズムというのは父権主義,父親のね.「わしの言うとおりにせい」というのが外科医だったのよ(笑).「ごちゃごちゃ言わずに医者に任しとけ」と,そうしたら,「お願いします」というのが患者さんでした.医者の患者との間に信頼関係があって,それで初めてそのパターナリズムというのができたわけです.けれども,新しい流れとしてがん告知,デス・エデュケーションというものが出てきた.日野原さんは,お亡くなりになった年が105歳でしょう.総会は24年前のことで,24年前といえば81歳ですわ.81のおじいさんがシンポジストになってお話をしてくれました. - 夏越
- すみません,先生は今お幾つでしたか.
- 岡島
- 今,89歳.
- 夏越
- 89歳ですか.まだシンポジストをやれそうですね(笑).
- 岡島
- 僕は東北の地震の時に,あれは6年前かな.その2週間前に三沢で胃がん学会があって,シンポジウムに出たんです.80を過ぎた人がシンポジウムに出とるいうて,今考えたら,ああ,日野原さんも出とったわと.それで,考えてみたら,日野原さんより年がちょっと上だった(笑).
- 夏越
- 岡島先生は学会でもさかんに質問をされますね.私も最近まで質問されていました,「それはどういうこっちゃ」みたいに言われてですね(笑).先生が立つと,やはりドッキリするんですよね(笑).
- 岡島
- いや,言うまいと思うんやけどね(笑).だけど,ついつい.顔見知りでしょう.おい,それはというようなことでと,ぽっと言うわけよ.それはもうあまりしないよう,これから心掛けておきます.
- 夏越
- いや,言われたほうがいいですよ,言われたほうが絶対いいです(笑).
- 夏越
- 42回総会の頃は,ちょうど拡大郭清と,縮小手術の始まりの頃ですよね.
- 岡島
- そうです.このときのシンポジウムテーマにも載っています.超拡大手術と縮小手術.僕らはもう拡大手術ばかりだったもの.でも,その時代はもう進行がんばかりでした.早期がんというのは年に一例か二例.いうても,初めから早期がんとして診断しとるやつは一つもなかった.取ってみて初めて,「ああ,早期がんか」という.
意識的な縮小手術なんていうのはなかったのです.われわれは拡大手術からがんの手術に入ったけれども,これからはもう拡大手術ではなくて,いわゆる進行度に応じた手術というのを言いだしたわけです.それが縮小手術なのです.だから,僕は早期がんが増えれば増えるほど縮小手術が多くなるとその時に思った.そうしたらその医師たちは,「胃がんの手術とは縮小手術だ」というふうに慣れてしまう.そんな時代に,本当に拡大手術が必要になった時,これはもうやったことがないし,見たことがない,というような医師が生まれてくるかも分からん.そういう現象が今,起こっとるね.だから,今は拡大手術は専門化された拠点病院的で行うものになりつつあるんですね.だから,そういう意味では,僕はいい時代に勉強したと思う.胃がんだけではなくて,大腸がんにしたって食道がんにしたって,皆,進行がんだった.大きな手術をして初めて手術になりよったわけです.それにもう慣れているわね.だから,恐ろしゅうないわけや.
大きな手術に慣れていないような人たちが,いざ大きな手術をするときは,それはもう自信がないだろうな.僕は,今は自信がない人ばかりだろうと思う.
だから今必要なのは,そういう大きな手術,拡大手術の伝承です.拠点病院的なところがしっかりと若い連中に教えていく,この流れを失わずに持っていてほしいと思います.ですから僕は,拠点病院的な制度というのは,これは絶対に必要だと思います.
大動脈周囲郭清なども,データとしては全国であまり有意差はないとかいうけれども,しかし,転移したやつが結構生きとるわけや. - 夏越
- 大動脈周囲リンパ節転移例でも15%ぐらいは生きていますね.
- 岡島
- それを,「あまり有意差がない」というようなデータだけできちんと手術をやらなかったら,その患者は死んでしまうわけや.だけど,やれる人間が,「よし,やろう」ということでやれば,その患者を生かすわけや.
僕の師匠の,先ほど話が出た陣内傳之助先生というのは,この人はもう朝から晩まで拡大手術でした.まあその時は皆そうでした.もう済んだだろうと思ったら,「ああ,ここにも転移がある」と.「もう郭清はやめてくれ」と,その時は思ったな(笑)だけど慣れたら,もう今度はやらなんだら何か物足らんのね(笑).ほんま,足の裏に付いた飯粒みたいなもんで,取らなんだ気持ち悪い.例えがおかしいな(笑),足の裏の飯粒.お医者さんは分かるでしょう(笑). - 夏越
- 確かにこれからの外科医は,大動脈周囲リンパ節転移がある場合,化学療法などをして縮小した場合には,取りにいかないといけないですね.その時に,取れないではいけませんから.われわれはまだ拡大郭清を知っている年代ですから,先生が言われるように,われわれが今の若い人にその技術だけは伝承しておかないと,本当は助かる人も助からなくなってしまう.
- 岡島
- 僕のいた大阪医大で,教室の人間が手術手技研究会というのをやっています.年に1回か2回集まってやっているわけです.ついこの間,みんなには黙ってその会に行ってみましたが,その時のテーマが「伝承するべき手術」で,大動脈周囲郭清.僕がいた時に教えたやつです.そいつ自身も胃がんになって手術を受けてているんだけれども,おかげで治って5年ぐらいになるでしょうな.そいつが自分の手術例をプレゼンテーションしたのです.
僕が行くということは,そいつは知らなんだ.それで,僕が行って座っとったら,「先生来られたんですか,困ったなあ」と言う.何かと思ったら,一番初めに「大動脈周囲郭清」,それで,そいつの名前と「わしは岡島の弟子じゃ」と書いとる(笑).そんなことを書いとるから,困ったなあという(笑).
プレゼンテーションを見ていたら,よし,わしの教えたとおりのことをやってくれとるなと思った.うれしかった.今,それを見よる若い連中は全然知らん.全然知らんというのは,今の教授がどうこういうのではなくて,普段はしない手術ということですわな.だから,そういうのがちょっとでも残っていてくれたら,ああ,良かったな,うれしいなと思う.あのスライドの第1面目に「わしは岡島の弟子じゃ」(笑). - 夏越
- いやいや,素晴らしいです.多分そうやって若い人が育っていくんじゃないかと思いますけれどもね,先生.
- 岡島
- 僕はそうなってほしいと思うの.
- 夏越
- それはもう,われわれの責任ですね.
- 岡島
- やはりそれは伝承ですわな.
- 夏越
- そうです.うちの3代前の教授が西 満正先生だったでしょう.西先生は岡島先生にそっくりで,私は岡島先生を見るたびに,西先生を見ているみたいで.
- 岡島
- 西先生というのは鹿児島の人なのです.がん研におられて,その時から,東京におっても鹿児島弁でしょっちゅう話し掛けてくれた.それが鹿児島大学の教授になって行って.
- 夏越
- その後がん研に戻られました.10年ぐらいいました.
- 岡島
- それで,梶谷先生がもう帰っておいで言うて,がん研の院長になって帰ってこられた.僕の3年ぐらい上です.
- 夏越
- 先輩ですね.よく似ていらっしゃいます.もう話し方とか,怒り方とかですね.だから,いつも自分たちのおやじを見ている感じがしていましたね.
- 岡島
- そんなに似とるかなあ.一緒に外国もよう行ったよね.がん研は梶谷先生と西先生というのがずっと続いたわね.それで,今の佐野 武先生になったら,非常にスマートになってきた.まあこれが現代流なんでしょうな.
- 夏越
- でも,若い人も皆,先達のやり方を否定はしていないと思うのです.だから先生の手技というのは今から先ずっと続いていくと私は思っています.
- 岡島
- あの手技は絶対に残さないかんわ.手技の話に変わりますけれども,昭和21年というのは終戦のあくる年ですが,『臨床外科』という雑誌が医学書院から創刊されました.『臨床外科』は今でもありますけれども,大槻菊男先生という東大の教授が創刊号の巻頭言に「外科医の教え」というのを書いた.これは,われわれに哲学を教えてくれたの.
昭和21年いうたら,あなた方は想像もつかんでしょう.終戦,戦争に負けて,食うものもない,住む所もない,着るものもない,日本中もう疲弊のどん底だった.僕はその時,高等学校,旧制高校だった.その時に芋ばかり食いよった(笑).本当に食うものもない.寮にいたら,寮の食事といえば昼,こんなお皿に小さな芋が2つ乗っとる.これが1食.そんな時代だった.
その時に大槻先生は,外科というのは手術でもって治療をする専門である.手術というのは人を傷付けることである.だから,傷付けることに対する自覚を外科医は皆持てよと.しかも,患者にとってみれば,体を切られるということでもう非常に恐怖心がある.その恐怖心を,心理学的に十分に癒してやるような態度でやりなさいと.
まず第一に,その心理学を心得よということ.それから,手術する上は,決して下手な手技でやるなと.そのためには,しっかりと技術を身に付けろと.外科というのは経験だけれども,経験ばかりではない.その経験に裏付けする学問がなければいかん.で,学問が,その裏付けがしっかりしているほど,その経験,手技がいいものになる.それを考えなさいと.ああ,本当にええこと言う.それを,昭和21年の終戦の時の大混乱の時に書いとるというのは,この人は偉い人だと思った.
僕は,大槻先生にお会いしたことがあるんです.僕がノイヘレンで陣内先生のところに入局したその1年目か2年目ぐらいに,大槻先生が陣内先生の手術を見にきたことがある.その時に陣内先生が,拡大手術,拡大手術と言いよった.それを大槻先生は見にこられてね.みんなこんなして,直立不動にしておった(笑).
梶谷先生も手術を見に来られて,その時に僕はびっくりしたのは,梶谷先生の目.本当に獲物を狙う鷹のような目でね,じっとその手術の内容を見とる.一流の外科医の顔ってあんなんだなあと思ったな.だから,この頃の……言うたらいかんか(笑). - 夏越
- いえいえ,どうぞ(笑).背筋を伸ばして.
- 岡島
- この頃の外科医はね,かわいい目しとるわ(笑).
- 夏越
- 確かに,あの頃の先生はみんなやっぱり怖いですよね.もう目つきから違います.
- 岡島
- 目つきが本当に.特に梶谷先生の目なんていうのは,鷹が獲物を狙うようなキッとした目で手術を見ていました.ああいう人がおらんようになったね.
- 夏越
- そうですね.だから,あれで優しく育てられればいいんでしょうけれどもね.今,あまり厳しくすると,もう後輩が付いてこないです.時代がやっぱり変わってきましたから.今の岡島先生ぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか.昔は厳しすぎたです(笑).
- 岡島
- 宮本武蔵の『五輪書』というのがあるでしょう,兵法のね.あの中に,「千日の稽古を鍛といい,万日の稽古を錬という.よくよく吟味あるべし」と書いてある.鍛錬ということは,千日も一万日も稽古をする.その後に,「量質変化」とある.量が多くなれば,同じような質でなくなってくると.初め下手なのが,同じことをやりゃあ上手になるようなもんでね.そのことを書いてある.だから,回を重ねるにつれて質が上がってくると.で,その質が上がるということを,みんなは考えろと.同じことをするのは嫌がる.同じことを繰り返すことを嫌がる.それは考えが浅いんだと.内容がどんどんどんどん上がってくる.
野村萬斎いうて,今の野村萬斎じゃなくて,そのおやじ.狂言師のね.あれが,狂言は弟子の教えは口伝である.口伝というのは,もう文句を言わずに師匠が言うとおりのことを自分の身に付けろと.まず師匠の型を,狂言いうたら型ですわな.その型を自分のものにしろと.ごちゃごちゃ言わずに型だけをまねしろと.そのまねをした型が,だんだんだんだんと自分のものになってくる.自分のものになって初めて,次に自分の型ができてくる.
だから,初めの修業というのは,とにかく人のものを盗めという.それから,自分のものをつくっていけと.
今は時代が良過ぎるのよ.それで,器械吻合だとか何かいうて,カチンとやりゃあもう同じように誰でも,100人やりゃあ100の同じものができる.千日の稽古をしろというんじゃないんだよ,これは.だけど,こうやってカチンとするような,これはトレーニングとは言わんのやからね.そのトレーニングというものを経験して初めてできるような技を自分で持ちなさいと.今,若い人にこんなこと言うてもいかんのね. - 夏越
- でも,先生,今の若い人は内視鏡手術のためにボックストレーニングや,結紮(けっさつ)などを一生懸命やっていますので.われわれの時は糸結びですね.糸結びとかをずっとやっていましたけれども.ですから,今,先生に外科医の心を教えていただきましたが,多分それは形を変えてつながっていくのではないかと思います.
- 岡島
- 今は器械吻合というと,カチンとやったらさっと縫いよるような.そういう器械吻合が一番初めに出た時に注意されたのは,その器械吻合が失敗したときに,それを修復するだけの技量を持った人間でないと,この器械吻合を使ったらいけないと.それは,その時は失敗する器械吻合が多かったんだよ(笑).だから,奥のほうにやっと器械吻合でできたなという吻合が,ちょっとでもずれたり穴が開いたりしたら,初めからやり直さないかん.もう非常に難しいところになります.それをやり直すことのできるだけの力量を持っとる者がやれと.そう僕は教わったから,なるほど,そうやなと思った.で,今はそんなにほころびるようなことがないから,皆はもう安心して吻合器を使いますわな.だけど,今の,手で縫うような仕事をする時のあの雑さ.
- 夏越
- 確かに,以前とはもう全然違いますね.もう一層で縫って終わりとかですね.
- 岡島
- 吻合いうて,きれいに縫うんじゃない.今はガッパーといってカチーン.
- 夏越
- 心構えですね,心構え.どっちで縫っても一緒かもしれないけれども,相手が患者さんだからやはり心を込めてわれわれは縫わないといけないという,岡島先生の若い人へのメッセージだと思いました.ちょっと手前みそですけれども,来年は日本消化器外科学会創立50周年でしょう.私は担当する総会のテーマを「春夏秋冬~心技の継承~」にしましたので,本日の話はぴったりの内容でした.