interview

50周年記念インタビュー
掛川 暉夫 先生

設立当初から会の活動に関わり,第34回総会の会長として,
また理事として日本消化器外科学会を支えてくださった掛川暉夫先生に,創立当時や学会長を務められた
当時のエピソードを伺います.聞き役は日本消化器外科学会評議員であり,
第18回日本消化器外科学会大会会長(2020年開催)を務められる予定の小澤壯治先生です.

第34回日本消化器外科学会総会

小澤
掛川先生は第34回日本消化器外科学会総会の会長をされていますが,そのときのご苦労などをお聞かせいただければと思います.
掛川
当時の学会会員は集まってもまだ3,000~4,000人ぐらいだから,久留米で主催しました.結局4,000人弱集まりましたが宿に困りました.宿泊はほとんど福岡周辺でしたが,町は学会の人が溢れて,日清,日露戦争のときに日本が勝ってちょうちん行列をしたぐらいの賑わいだったという話が後から聞こえてくるほど,町の人にはインパクトがあったと,それが学会企画についての思い出です.
プログラムについては,その時々の問題点を特別講演とかシンポジウムに取り上げましたけれども,新しい試みとしては,若い人たちの良質なテーマに賞を与えるYoung research awardというのを初めて作ったことではないかと思います.
小澤
久留米で開催するにあたり,会場は幾つか確保しなくてはいけませんが,どのくらい前から準備されたのですか.
掛川
もう,小さな町でしたから,適当な会場が少なく会場を押さえるのに1年半から2年ぐらいかかりました.市民公会堂と石橋美術館のそばにある,ブリヂストンが作った石橋文化ホールと,それからホテルを幾つか用意しました.バスが町中を回るようなアクセスでした.
小澤
学会を主催するに当り,運営費,予算はいかがでしたか.
掛川
久留米大学は伝統のある大学でしたし,同門会もしっかりしていたので,同門の先生方のご寄付と,あとは当時メーカーとかスポンサーもたくさんおられたし,そういうわけで比較的潤沢に集めることができました.
小澤
学術集会の内容もさることながら,運営にはそれなりに費用が発生しますから,それを何とかするのは会長の一つの仕事かと思いますが,その当時は世の中が比較的,豊かだったのですね.その当時,先生が総会を開催されてうれしかったことは何でしょうか.当然のことながら,入念な準備をされて,成功裏に終わられたと思うのですが,やはりほっとするという感じが強いのでしょうか.
掛川
私の会長講演は,「食道癌の歩みと共に」という題だったのですが,これは恩師赤倉先生(赤倉一郎先生:慶應義塾大学外科)が,日本胸部外科学会を主催したときの会長講演のテーマと全く同じです.先生は最後の結論で,これからやらなければいけない今後の方針として,治療成績の向上のためまず直接手術死亡率を減らすこと,遠隔成績向上に対しては,リンパ節に対する対処が大事だと述べた.私はこの解決が食道外科に従事する後輩の最大の義務と考え努力して来た,と自負していましたので,我々の時代の実績を示すことが恩師への答えと考えておりました.同じテーマで講演できたことに満足感を持ち,同時に継続してきたため,解決の一端くらいは果たすことができたのではないかと嬉しく思いました.あとはさっき言ったように,日清戦争,日露戦争以来の賑わいだったと町の人がすごく喜んでくれたことは良かったです.やはり地元でやる意義があったと思いました.そんなことで,ほっとしたことはほっとしました.
小澤
あと,ご苦労も幾つかおありだったと思いますが.
掛川
苦労は終わってしまうと,何だったか忘れてしまいます.今思うと,町が賑やかで町中に学会の車が回って,みんなが喜んでくれて,会員の人たちもこんなときでなければ久留米に来れないから喜んでくれたと信じていたけれども,若い人たちは宿で困ったのだろうなと,後で思いました.
小澤
若い会員の先生方ですね.
掛川
会員の人たちはですね.そうことまで配慮が及ばなかったということをつくづく思います.だから,会場はアクセスのいい便利な所でやるのがいいと,なかなか難しいなと反省したこともあります.

設立当時の世の中と医学の流れ

掛川
この学会ができるころの私自身の思い出を振り返ってみますと,この学会ができたのは昭和43年で,私が外科医になって消化器外科,特に食道外科を専門にやろうという気になって10年ぐらいたったときです.当時は研究発表の場は日本外科学会が最高で,外科学会に選ばれることが一番の評価でした.しかし,外科学会の60%から70%近くが消化器外科医で,外科学会としても消化器外科医を無視できないので,結構消化器外科医が主導権を握りながら外科学会が運営されていました.そこに消化器外科学会ができることは何かおかしいなと,屋上屋を重ねるみたいになぜこんなものができるのかと思っていました.
ところが後で先輩の話を聞いてみると,ちょうど日本の経済が発展して,いざなぎ景気と言っていたころです.流行語で言えばヒッピー族とかフーテン族,ミリタリールック,ミニスカートがはやっていて,その反面大学闘争もあったころでした.そういう渾然としている中で,いざなぎ景気で経済成長が進んできたから,交通災害とか,医療改革の重要性が唱えられ,医学制度も直さなければいけないということと,専門,細分化がどんどん進んできて,さらに医療の地域格差をなくしていかなくてはいけない,そういう問題が重なって,何か医療を改革しなければいけないという機運があったのだと思います.それを創始者の中山先生たちが敏感に反映して,教育も含めて消化器外科の専門性を高めていかなければ駄目だという意味で消化器外科学会を作ったのだと.だから,外科学会の上に,より専門性があるということが主だったのだと理解しています.先達の考えたことはそうだったのかと後で理解した.そういう時代でした.
はじめは外科学会の理事が消化器外科学会の理事を兼任し,彼らが消化器外科学術集会会長を決め,会長は学術集会のみを行うという状況だった.従って学会そのものの将来展望,問題点等を真剣に考える人材が不毛となる危機感がありました.その頃宮崎逸夫先生(金沢大学),鍋谷欣市先生(杏林大学)といった我々若手が理事になり,少なくとも理事を2期経験したものでなければ会長の資格が得られないという内規を作ろうということになった.少なくとも2期理事を務めれば学会の業務に精通できるから,と.
それで,理事選というのを激しくやって,それを2期やったら消化器外科学会の会長になれるという格好です.その代わり消化器外科学会の総会,大会の別をなくし,同列にしようということで年2回行われていたのです.
小澤
その外科学会から消化器外科専門の消化器外科学会というのができて,本当にその消化器外科のことを考える先生に会長をやっていただくという方向性でずっと来ていますね.
掛川
そうです,そのようにやって来たのです.

消化器外科学会の先進性

小澤
若い人たちもその大きな流れにみんな賛同して,入会して,活動が盛んになってきたということでしょうか.
掛川
特に専門性を高めるという意味で,消化器外科学会を運営していく中枢になる評議員を票で選ばないで,業績で選ぼうということになりました.消化器外科学会はどこよりも早く業績で選ぶという形になっていったのです.だから,若い人たちも業績があればそれに参加できます.そういう意味で,消化器外科学会は本当に専門性が生かされていると考えられたのではないでしょうか.
小澤
先進性ということになると,やはり消化器外科は外科の中でもかなり抜きん出ていると思います.というのは,業績評議員は昔からあるのでしょうけれども,例えば理事の選挙も他の学会に先駆けてペーパーレスというか,電子投票になりました.
掛川
それはすごいですね.
小澤
そうなんです.前は評議委員会に行って紙に記入して投票でしたが,それではなくネットから電子投票するとか,教育集会を年に2回やっていたのですが,やはり何千人という人が一同に集まることについて,効率を考えると,臨床をお休みしてそこに出るのは大変なので今,e-learningというのを実践しています.ところが,他の学会ではいまだに旧態依然としてやっているのでなかなか参加できないということがあります.新しいもの,いいものをどんどん取り入れていく流れというのは,昔からあったということなのかもしれません.
掛川
ただ,一つ,これは僕が会長のときに作った制度ですが,認定医制度.消化器はより高い専門性を選ぶべきで,本当は認定医なんて要らないのです.外科学会の認定医はあってもいい.外科学会の上にさらに専門性を高める消化器外科というものがある.だから,専門性の重要性はすごく必要ですが,では,認定医とは何だということになります.僕が会長のときに諮問されて,作れと言われたのだけれども,何か抵抗を感じました.厚生省が標榜診療科というのをもうけて,それを看板に出す.それがイコール専門医制度に移行して,保険の点数にもなっていくのではないかという流れが,ちょうど私らのときにあったわけです,今はまだ実現していませんが. だから,消化器病学会はすぐに認定医というのを作ってしまったのです.そうすると消化器外科も認定医を作らないと一般の人は外科学会で認定医を簡単に取って,あとは消化器病で認定医を取れば,開業したときに,外科+消化器病の認定医ということで,消化器外科に入る必要がないわけです.そうなると,消化器外科学会というのは,本当に限られた専門性の人たちだけで,これは尻すぼみになるという不安もあったし,国が消化器外科という標榜診療科名を認めてくれそうもないなら,既定事実として標榜診療科を作っておかなければ駄目だと.それで,消化器外科の認定医というものを主張しようではないかということで,僕のときに認定医制度をつくりました.
小澤
消化器の診療に携わる内科系の先生と外科系の先生で,同じようなシステムが必要だったということで認定医を作られたのでしょうか.
掛川
そうです.消化器病の人は簡単に認定医制度を作ってしまった.こっちはそういうものは要らない,外科学会の認定医があるから消化器外科は専門医だとやっていると,そこへ入ってくる人がいなくなるという危険性を強く感じました.せっかく消化器外科学会が伸びているのに会員がどんどん減るのは困るという会員も多くて,それなら消化器外科学会も認定医を作り,それに対抗しなければならない,こういうことです.今,どうなっているのですか.
小澤
専門医という1種類になっています.
掛川
1種類ですね.ということは,元に戻って良かった.ということは認定医で,国がライセンスを与えるということがなくなった.あのころは認定医イコールライセンスという動きが強かったです.だから危機感が強かった.
小澤
横の他の学会の動きに敏感に対応してのことですか.
掛川
そうですね,対応して.
小澤
迅速な対応で本来消化器外科のほうに進める人たちをちゃんと安心して受け入れられるようにしてあげたという.その辺りの情報というのは,どういうところから会長さんに入ってくるのですか.
掛川
当時はお役人と親しい東大を出た人たちが厚生省と話をすると,「どうもこうなるらしい」とかいろいろな情報が入ってくる.国はこういうことを考えているぞ,という情報が真否を問わず入ってくるわけです.偽情報に振り回されることもありましたが.
小澤
今はどうなのでしょう.外科医が少なくなるのと同じで,もちろん消化器外科医もそれほど多くないですけれども,先生が会長をやられていたころは成長期でしたから,若い人たちが働き掛けをして,成長をさらに促進したというようなことはございましたでしょうか.
掛川
若い人たちに,特に魅力なんて言わなくても入ってきた時代でしたので,入るのが当然だと思っていました.社会的にちょうど,アメリカの脳外科医のテレビドラマが有名でした.
小澤
ベン・ケーシーですか.
掛川
はい,ベン・ケーシーの流れで「外科は格好いい」というイメージが,外科は魅力があるというのがあのころはあったから,勧誘しなくても入って来ました.外科はきついと言われる少し前でしたから,あまりそんなイメージはありませんでした.
ただ,話が前後しますが,専門性ということに対してはみんな敏感でした.ちょうど大原さん(大原 毅先生.東京大学第3外科)が会長のときに,僕が将来構想委員会の委員長をさせてもらったのです.そのときの大きなテーマが消化器外科学会を年に2回やっていいかどうかでした.私は委員長としていろいろな意見を聞きました.ちょうどそのころ,2月に消化器外科学会があって,4月に外科学会,7月に消化器外科学会という流れがついていました.また,外科学会はただ純粋に学術研究をするだけではなく,国民健康,福祉生活の向上などの問題とか,いろいろな社会の要望に応えなければいけないという義務が出てきました.そういう意味で活動範囲が広くなって,研究一遍の学会ではなくなってきました.そんな中で2月の消化器外科学会にテーマを出して,駄目なら4月に外科学会に同じものを出して,どちらか通ればいいというような安易な動きが出てきて,実際に消化器外科学会では落ちたけれども外科学会は同じものを出したら通ったとか,そういう事実も出てきました.
私はその当時外科学会の理事もやっていたから,両方のことがよく分かり,これでは両方が共倒れになると思いました.外科学会の任務は,基礎的なことを国民に知らせなければいけないと同時に研究もする.消化器はさらにその上だから,それでは消化器を年に1回にして,より高度なものにしたらどうかということでアンケートをとりました.そしたら,当時の名誉会員,特別会員,評議員の70何%の返答があって,その中の70%は年1回がいいという返答でした.それで,私が将来構想委員長として年1回の理由を,今のようなことを書いて,答申して,出しました.ただし,いろいろ用意している人もいるし,年に2回がいいと思っている人もいるから,2000年を機に1回にするという答申で評議員会の決を採って,それで年に1回にしました.それが確か船曳さん(船曵孝彦先生.藤田保健衛生大学外科)が会長のときではないでしょうか.それから,10年ぐらい年1回が続きました.それで確かに総会はそれなりに専門性が高まってきたと思っていたら年2回に,あれよあれよという間に逆戻りしてしまいました.
しかし考えてみると,本来,メスで人の体に傷を付けず病気を治すのが治療の本質です.だから,さっき外科医が少なくなるとかならないとか言うけれども,将来的には何もメスを持たなくてもいいわけです.疾患が治ればいいわけですから.病気を,メスを持たずに治すというのが究極の目的です.
消化器病学会とともに消化器外科を1年に2回やって,1回は協同の場(JDDW)でやる,となったので,大会のほうは主に外科の場合は例えばストレスによって生ずるサージカルオンコロジーとか侵襲を超えた後のメタボリズムとかの研究を中心に教育も含め研究成果を発表する.
内科は慢性的な刺激に対して,どうやっていくかというのが発表の主体.そういうものが,偶然一つの場に集まる.単なる教育だけではなくて,人間の病気を慢性刺激と急性刺激に対する生体反応,現象両面の知恵などを持ち寄った研究をするような方向にもっていくと,消化器の専門性はもっと上がるんじゃないのか.せっかく消化器病と年1回合同で行うようになったんだから,単なる教育の大会なんて言わないで,また消化器外科学会総会と同じようなことを2回繰り返さないで,本当に細胞レベルで慢性刺激と急性刺激の問題を解決するような研究をやっていただければ,消化器の専門性はさらに高まるんじゃないかなと考え直しました.これが年2回行うようになったことに対する私のお願いです,強いて言えばね.
小澤
先生のお話を伺って,消化器医療の最終目標が何なのか分かります.患者さんの消化器疾患を治すのがわれわれの目標ということになるのでしょうか.
掛川
治す,そういうことなんです.
小澤
たまたまわれわれはメスを持っているけど,持たなくてもいいんだということですね.それは非常に新鮮な考え方ですね.
掛川
新鮮というか,そういうことを望んでいるのですから.それを外科医が少ないからどうのこうのと言う.私はそんなことはどうでもいいのではないかと思います.メスを持たせたからどうとか,喜びを持ってとか,いつまでもそういう時代ではありません.現にメス無しで,どんどん,治っていく分野も出てきているではないですか.また一方で内科の先生もメスを持つようになってきていて,両者の境界が複雑になってきていますよね.
小澤
内科の先生も持ちますね.
掛川
そうでしょう.だから内科,外科ではなくて,消化器の中で,一つの病気で治すという格好にもっていけば,外科が減っていることはあまりこだわらなくてもいいのではないですか,というふうには思います.
小澤
消化器疾患を治したいという医者の集まりということですかね.
掛川
そう,そのような集まりというものにもっていくことが究極なのではないのかと愚考します.

若い外科医へ

小澤
先ほどメスという言葉が出てきたのですけれども,以前,掛川先生が向井千秋先生と対談されたときに,宇宙空間では重さを感じるのですかという話をされたかと思います.メスとかクーパーなどそういった手術の手技,それからいろいろな技,その辺については先生の思い,若い外科医にお伝えしたいことなどもありましたら,お伺いできればと思います.
掛川
学会の件とは話が違いますし,究極的にはメス無しで治すことが医師の使命と思いますが,切り取り治す以上,手に感じるメス,ハサミの重さは極めて重要,切除する病巣,血管,組織に接したときそれらの抵抗や重みをいかに感じるがという感覚,それにより切除層の深さを敏感に触知できます.このような見地から,手術にメスなどの重みの重要性を私は常々感じていました.無重力で抵抗を感じなければ,どこで止めていいか分かりません,目で見るしかないです.だから,宇宙に行って,重力のないところで物を切ったりするのはどういう感じかを聞いてみたのです.
若い外科医に何かメッセージを,とのことですので一言,私の好きな言葉は温故知新です.日本の国と言わず,人間には有史以来の長い歴史があるわけですが,人間の考えることというのはある程度の精神構造が出来上がって以来,そんなに進歩していないのではないですか.ただ,科学が進歩したから,どんどん素晴らしい,あなた方がやるように内視鏡の3Dなどいろいろなことが実現しています.でも,目で見てやってみるという根本的なアイデアは変わっていないのです.病巣を目で見て確認した上で,手術の適用を決めようとする行為は,古今変わっていないと思います.ただ,道具が進歩しただけです.
日本は島国で他国から侵略された経験が少ないためか.日本人の心は独特な細やかさ,繊細さが育まれている.例えばこの間もテレビで言っていましたが,日本独自の文化である生け花というのは花を長く生かそうという工夫から華道ができたし,お茶も一杯のお茶をおいしく飲むためにいろいろ工夫するうちに茶道という道ができて,だんだん一つの形態になって素晴らしいものになりました,香道も匂いを.そういう非常に素晴らしい精神構造を持っている中に,科学がどんどん進歩するようになった.だから,先人の考えていることを常に大事にして,温故知新でさらに温故創新,新たに作るという気持ちは大切です.これは矛盾しているようだけれども,常に先人のやっていることを学ばなければいけないけれども,「これでいいのかな」という疑いも持たなければいけません.
何か困っているとき先人の故事に学ぶことは多々ありますが,同時に新鮮な科学的知識の導入も忘れてはならない.温故知新イコール温故創新の気持ちを忘れず,常にやっていることに疑いを持つ心,「自分ならこうする」「あれはどうなっている」「良いことはすぐ取り入れる」気持ちが大切.それが若い人へのコメントです.
小澤
ありがとうございます.そうすると,特に組織の,比較的上に立つ人こそ,そういう自由度を若い人に与える必要があるという.
掛川
そうですね.人間は万能ではありません.中途半端に成績が良くて頭の良い人は,上に行くと何でも自分が分かろうとして,自分が理解しないことは許せなくなってしまうことがある.あらゆる面で素晴らしい人間というものはあり得ないのですが,自分の知らないことは「生意気なやつだ.俺の知らないことを」と押さえようとすると,そこは伸びない.組織が伸びるというのは,もちろん,自分の専門は誰にも負けないと思わなければ自分がやられてしまうから,自分の専門は自分で伸ばせばいいし,伸びてくるものを抑えてもいいですが,そうではない分野は温かい目で何でもやらせるということが必要ではないでしょうか.だから,中途半端に頭のいい人が困るのです.1番だったら,何でも1番でなければいけないと.
小澤
上司のそういう資質,心意気もそうですが,若い人たちはどういう上司の元で働いたらいいか,これは分かりにくいですね.
掛川
分かりにくいですね.
小澤
運でしょうか.
掛川
小学校からの教育も大切ですね.四季豊かな気候の中で育成された日本人特有の森羅万象に対する慈しみ,優しさ,興味を持つ心が,戦後アメリカ的合理主義にやられてなくなり,好きなことに寝食を忘れ夢中になる心意気の減弱傾向があるように思いますが,私の偏見でしょうか.もう少し自分の仕事に興味を持つべきではないでしょうか.そういう人が集まってくれなければ,いくら上が言ってもなかなか難しいと思います.
小澤
今で言うと大学の教員からすると,学生さんに教育するのは,いいところをなるべく見せてあげて,興味が湧くようにしてあげて,さらに消化器外科の良さをもっと正しく理解してもらえるようにすると,人気がさらに高まるということですか.
掛川
ええ.消化器外科をさらに盛んにするには,さっき言ったような心構えが一番大事だけれども,いわゆるあなたが専門にしているような3次元の世界で,立体構造が棒を突っ込んだだけで分かるようになって,転移まで分かるようになってこうだと見せると興味を持つのではないですか.だから,常に今の最先端の技術を見せてあげるということが大事ではないですか.
小澤
これは消化器外科に限ったことではないのですが,外科医に対して魅力を感じてもらえるように,われわれは若い人たちに働き掛けなければいけないのですが,今の若い人たちは比較的マイナーのほうに行ったり,QOLの良い診療科に行きがちなのです.それは多分外科医のロードマップの想像がつかない部分があるのかと思います.
外科の高度成長期と異なり今はどちらかというと安定しているからこそ,冷静に評価されているところがあります.将来的に外科医はどんな形で進むのがいいのでしょうか.なかなか答えの出ないところですが.
掛川
出ないですね,難しいです.われわれの世代はそんなに科学進歩が激しくない,外科医はまず胃の手術ができれば,それで一生外科医として通じるという時代でした.胃の手術ができたら立派な外科医でした.今はそんなどころではなく進歩してきています.
小澤
そうですね.
掛川
そういう中で,それができる場所はどういうところかというと,大学,大病院などですが,そんな競争の激しい所に自分から好んで行く人も少ないのではないですか.
自分なりにささやかな生活が送れる場所というと,必然的に楽な場所,安易に開業できるところに入ってしまいがちです.社会状況がそうなってしまっているので,なかなかそこでそうじゃないよ,と手を尽くしても,笛吹けども踊らずです.それよりも人間というのはどう生きたら幸せなのかということを分からせるほうが大事だと思います.自由な時間が取りやすく仕事が楽だからと例えば皮膚科,眼科へ進んだとしてもすぐ退屈すると思う,自分が選んだ職業が好きで,楽しく趣味となるような生き方をしなさいと,そういう中で外科の面白さを教えたほうがいいと思います.消化器外科の魅力はこうだということより,ものを切ったらこうなる,これをこっちから攻めたらこうなるかもしれないとか,こういう臓器をこういう新しい物質と置き換えてみたら,人工培養してみたい.小さな町工場のおやじが何かのことに夢中になって,つい宇宙に行くようなものを作り,それにみんな参加するとかあるではないですか.ああいう気持ちをみんなが持つといい.
仕事というのはお金を幾ら稼いだからといって,満足できるものではありません.仕事を趣味に持つ.そういう生き方の中に,外科学というのは無尽だよという教え方をしないと,消化器がどうのこうのと言ってもきついばかりだと思うのではないかと私は思います.そういう人間の感性を掘り起こして,おまえが一生やっていったときに悔いのない生き方をするには何がいいのか.幅広く興味が持てて,趣味となるもの.今の悪いところは,仕事は労働で5時以降働かせてはいけない.それで5時でうちに帰って畑仕事しているわけでしょう.疲れた人がうちに帰って,しかし畑仕事が趣味だから文句を言わないのです.では,その畑仕事と同じ趣味を仕事の中で持っていればいいじゃないかと思うのです.だから,仕事に趣味を持ちなさい.仕事を趣味としなさい.そのような考え方,職人気質的生き方が日本人の心には強く植え付けられており,多くの繊細,精密な優れた科学,工芸品を生み出している.この生き方,一生も大切だと教えることも重要ではないでしょうか.
小澤
先生のおっしゃるのは,根本的なフィロソフィーですね.
掛川
そうです,私の細やかなフィロソフィーです.最後に記念誌の趣旨から離れましたが,呆けた高齢者のアナログ的発言との批判は承知の上で,敢えて一言述べさせていただきました.
小澤
フィロソフィーをちゃんと教えてあげなければいけないと.本質論というか,それなくしては小手先のものになってきますね.本当に貴重なお話をどうもありがとうございました.