interview

50周年記念インタビュー
水本 龍二 先生

2018年に米寿を迎えられた水本龍二先生は,日本消化器外科学会の創成期の頃から
活発にご活躍されており,本学会の歴史の生き証人の1人です.
先生ご自身の活動と学会の歴史に重なる部分も多く,ご活動とそれに込められた力強い思いをお話しいただきました.
聞き役は同門の後輩でもある日本消化器外科学会評議員,太田哲生先生です.

第35回日本消化器外科学会総会

太田
本日のインタビューにつきましては,昨年末に学会事務局から私宛てに,第35回総会会長の水本龍二先生へのインタビュアーを務めてほしいという依頼が届きまして,実は私は二つ返事でお引き受けしたわけです.と申しますのも,水本先生は昭和30年に金沢大学医学部を卒業され,しかも,私共の先々代の教授である宮崎逸夫先生と同期で,2人そろって金沢大学第二外科学教室に入局された,いわば同門の大先輩です.そして,私がアカデミック・サージャンとして尊敬している消化器外科医のお1人だからです.そういうご縁がありまして,本日はインタビューをさせていただいております.水本先生,どうぞよろしくお願いします.
 最初に,水本先生が担当されました第35回日本消化器外科学会総会にまつわる思い出話などについて,例えば当時総会会長に選出されるまでの経緯や総会会長をお務めになられていた頃の学会の事業等における苦労話,さらには水本先生は総会を伊勢市で開催されましたが,その総会期間中の思い出や,やはり何といっても学術プログラムの一番の目玉である会長講演の準備等での苦労話,学会期間中の想定外のハプニングなど,差し支えない程度で構いませんので,ぜひいろいろとお話を聞かせていただければ幸いです.それでは水本先生,お願いいたします.
水本
最初の経緯からお話しますと,日本消化器外科学会は昭和43年7月に横浜で第1回総会が開かれたわけですが,昭和43年,44年というのは大学紛争が激しい時で,東大,京大系の方が参加できなかったのではないかと思っていました.私はこの時ちょうど米国へ留学していました.けれども,その前の年から横浜で開かれることが分かっていましたので,留守の人に入会をしておくようにお願いしていたので,おそらく私は第1回から入会したことになっていると思います.
 35回総会会長を選出するに当たっては,その前に通常,理事を2期やっておく必要があるというのが当時の通例で,私の同期で先ほどお話もありました太田先生の恩師である宮崎先生が評議員に当選した頃に,宮崎先生からうちの助教授の川原田嘉文君に「水本君もそろそろ理事に出たらどうだ」というお話がありまして,昭和59年に私は理事に当選しています.
 その理事2期を終わる頃に,ちょうど昭和61年の日本外科学会総会で私は「肝臓外科に憶う」という特別講演を行いましたし,その年の7月に青森で開催された消化器外科学会第28回総会では,助教授の川原田君が宿題報告を担当していました.そろそろ理事も2期務めて,全国学会で教授,助教授が出演することができた機会に学会会長の候補に挙がったらどうだと宮崎先生から勧められて,昭和63年7月の理事会で内定しまして,平成元年2月の羽生富士夫会長の時に副会長に指名されまして,平成元年7月の掛川暉夫会長の総会終了後に私が第35回の会長に就任して,平成2年2月に総会を開催することになりました.
 この時の当時のエピソードとしては,過去,2月に行った大会はしばしば豪雪に見舞われまして,例えば前多豊吉会長の第4回大会が秋田市で開催された時は私も出席しましたが,大雪で交通機関が全部ストップしたりして大混乱を起こしました.また,土屋凉一会長の第17回総会が長崎で行われた時もあの南の国で豪雪に見舞われて,ろくにタクシーが走らないというような厳しい状況でしたし,古賀成昌会長の第27回総会が米子で行われた時も雪に見舞われました.当時「2月の総会は暖かい所でやらないと混乱を招く」というような話題がありまして,35回選出の時も「伊勢なら大丈夫だろう」というようなことで選出された経緯があります.
 その頃は半年ごとに総会を開催していましたが,この半年間に重要事項が幾つかありまして,翌年から始まる認定医制度の準備のため,頻回に認定医制度とか専門医制度の試験の会議に追われたことが1つあります.また,この短い半年の間に先輩の会長がお二人亡くなられまして,第27回会長の古賀成昌先生,それから第20回会長の代田明郎先生と,現職会長として米子と東京に行って弔辞を読んでお葬式に参列したのが思い出されます.
 会場を伊勢に置くということは,実際には主会場の伊勢市観光会館と皇學館大学の記念講堂の2つが主軸ですが,この間は自動車でも20~30分かかりますので,皆さんにご不便をかけたらいけないということで,連絡バスが出たら次のバスが来るのが見えるというぐらい頻繁にバスを配置して連絡に当たりました.
 また,理事会,評議員会,懇親会は隣の鳥羽市で開催しまして,例えば評議員懇親会は鳥羽国際ホテルの会場では狭くて,1階と2階に分かれて懇親会をしなければいけません.会長招宴は志摩観光ホテルという一昨年サミットのあった超一流のホテルですが,何と会場からバスで1時間ということで,皆さんに大変ご迷惑をお掛けしました.やはり地方でやるときには,そういう隘路があるという感じを持ちました.
  先ほど申し上げた志摩観光ホテルで会長招宴をやったという他に,伊勢神宮の内宮を正式に参拝できました.これは大宮司の慶光院さまを存じ上げていましたので,ご手配をいただきましたし,松下幸之助氏が寄贈した立派な茶室で普段入れないような所を奥さまともども希望者に参加していただきました.太田先生は行きましたか.
太田
いいえ.残念ながら行っていないです.

総会内容

水本
学会の開催に関してはそんなことですが,学会の内容も簡単に言います.学会の内容で特に新しい企画としては,インターナショナルシンポジウムで肝門部胆管がんを取り上げました.南アフリカのJohn Terblancheとか,スウェーデンのStig Bengmarkとか,オランダのN. J. Lygidakisなどを招いて,本邦では肝門部胆管がんのそうそうたる筑波大学の岩崎洋治先生,慶應の都築俊治先生,京大の山岡義生先生と僕の所の川原田嘉文君が出席して,日本の肝門部胆管がんの成績が非常に素晴らしいという結果を得たわけです.
 これと関連して,パネルディスカッションとして「悪性閉塞性黄疸における術前減黄術の再評価」というのを取り上げました.これは日本ではPTBDを術前にやって,黄疸を下げて手術が安全に行われるということが広く使われていたのですが,外国ではそれがほとんど使われていない.日本の演者は,外国ではPTBDが下手だからとも言われましたが,基本的には必ずしもそう言えないところがあります.私はこの領域には非常に興味を持っていまして,世界の文献を欠かさず読んでいます.最近でも一時はPTBDではなくて内視鏡的逆行性に減黄するということも使われていますが,そういう術前減黄術が果たして肝門部胆管がんにいいかどうかという当時の疑問には,今でも批判的な論文が続々出ていまして,当時としては先見のあった企画だったように思います.
 その他,内科医や放射線科医にも参加してもらって,それぞれ肝細胞がんとか膵炎治療の内科,放射線科のトップクラスの方に演者として参加していただきまして,もちろん外科からも参加したわけですが,これなどは今までになかった新しい試みと思っています.
 例年,各学会で外科手技を紹介するシネは大体1つぐらいは含まれていましたが,この35回ではシネシンポジウム,シネパネルの他にシネクリニックと,シネを使った企画を幾つか取り上げました.これは従来の取り組みをはみ出たものであったかもしれませんが,その後の会長の参考になった企画ではなかったかと思っています.
 会長講演は「肝臓外科における手術危険度と手術適応の拡大」でありまして,この年の5月に開催された第90回日本外科学会総会において葛西森夫先生の「侵襲学と外科手術成績向上」という特別講演の中で,私が会長講演で紹介した栄養,特にPNIの重要性を引用し報告していただいています.第35回に関係したことは,そのようなことです.
太田
大変貴重なお話を聞かせていただきまして,ありがとうございます.第35回総会プログラムの中で,これまでになかった新しい試みとして,先生はまず学会のグローバル化の先駆けとして海外から一流の消化器外科医を招聘したインターナショナルシンポジウムを企画され,素晴らしい成果が得られました.また内科医や放射線科医を交えての診療科の垣根を越えた横断的なシンポジウムやワークショップなど,まさに時代を先取りした素晴らしいプログラムを企画されました.
 また在任期間中の重要な事業として,認定医制度や専門医制度の発足の準備状況についても先ほど言及されましたが,実は私も消化器外科学会の理事として専門医制度委員会の委員長を務めていましたので,専門医制度のスタート当時,計り知れない多くのご苦労があったのではないかと拝察します.そして,その苦労をいとわず,これからの消化器外科医のためにと専門医制度を立ち上げられました水本先生をはじめ,多くの先輩諸氏に心から敬意を表するものであります.

第40回総会記念講演

太田
創立からちょうど四半世紀が過ぎた平成4年4月に,横浜市におきまして東京慈恵会医科大学教授の桜井健司先生が第40回日本消化器外科学会総会を開催されましたが,その節目の総会におきまして水本先生は「日本消化器外科学会の回顧と明日への期待」と題しました記念特別講演をなさっておられます.その時の司会は東京女子医科大学教授の羽生富士夫先生でしたが,水本先生はその講演の中で本学会設立の経緯や,その後の消化器外科学会の歩みについて,先生ご自身の専門分野である肝胆膵領域における手術の進歩のみならず,世界の消化器外科領域の動向をしっかりと俯瞰しながら,卓越した洞察力で本学会の過去,現在,そして未来について言及されたと私はお聞きしています.ぜひその第40回総会の記念特別講演についてお話を聞かせていただけないでしょうか.
水本
日本消化器外科学会が発足して10年,20年,30年,40年の節目ごとに企画が持たれていまして,第10回総会では光野孝雄会長が,槙哲夫先生や中山恒明先生などを中心とした記念講演会を開かれています.第20回総会では,代田明郎先生が中山恒明先生の「消化器外科20年の歩み」をやられています.第30回総会の鍋谷欣市会長の時は,中山恒明先生や井口潔先生が将来の展望なども含めてお話しになっています.この領域で世界的にもトップクラスの先生方が第10回・第20回・第30回総会を記念して講演を担当されたわけですが,私のような末端の弱輩者が第40回総会の記念特別講演の指名を受けたのは,身に余る内容であったわけです.しかし,私の恩師の本庄先生が「逃げてはいかん」と言われまして,ご指名であればということで担当させていただいたわけです.その概要はまとめて冊子として発刊されて,三重大学の三重医学会から発行されていまして,国会図書館に登録されてナンバーもいただいている本が発刊されています.
 講演内容は大きく9項目ありまして,その中から回顧は別として,「明日への期待」という項を第40回の時に担当した内容を振り返りながら,それがどのように展開したかを今回お話しできればよろしいかと思います.
太田
よろしくお願いします.
水本
1つは,胆道がんの手術の進歩というのがあります.肝胆膵を専攻するわれわれがなぜ私自身,胆道がんを取り上げているかといいますと,これには皆さま方が興味のあろうと思われる歴史があります.昭和40年代は,肝臓手術は北大の葛西洋一先生あるいは山梨大学へ行かれた東大におられた時の菅原克彦先生,膵頭部あるいは下部胆管は東北大学の佐藤壽雄先生が専ら力を発揮されていましたが,どうも私が考えますと,この両者の間には一線が引かれていて,肝胆膵を同時に扱わなければいけない肝門部胆管がんに関しては皆さん敬遠しているように見受けられました.
 そもそも私の恩師,本庄一夫先生は,肝臓では世界で最初の定型的肝右葉切除をされた方ですし,膵臓全摘は世界で2例目で,がんとしては初めて成功されています.それから,その間の肝門部胆管がんは金沢大学在任中に切除されて,報告は私が担当していましたが,これは世界で2例目です.オーストラリアで最初の1例が,部分切除でやられていますが,肝切除も含めた,これは世界で2例目の肝門部胆管がんの切除例です.
 本庄先生の肝臓,膵臓の手術は昭和20年代で,肝門部胆管がんは金沢へ着任されてからの昭和30年代でして,その後の肝臓,膵臓は先ほど申し上げたように一線が引かれているような状況にあったわけです.その中間にある肝門部胆管がんにアプローチするためには,肝臓も膵臓も取り扱わなければいけないし,時によってはHPDもやらなければいけません.そういう胆道がんの,特に肝門部胆管がんの手術こそがこの領域の局面であると考えて,この40回総会で記念講演の1つとして取り上げました.
 そもそも胆道がんの研究会は厚生省の班会議がありまして,初代の班長は北大の葛西洋一先生ですが,次の班長が筑波大学の岩崎洋治先生でした.岩崎先生が都合で途中班長を降りられましたので,私が引き続き班長を受け持つことになりました.この時に岩崎先生が,われわれがこの研究会で発表した肝門部胆管がんに対する尾状葉合併切除の仕事を非常に高く評価されまして,「ぜひ早く論文にしなさいよ」というお勧めがありました.そこで私共はアメリカ外科学会の雑誌SGOの162巻2号(1986年)に投稿したわけです.
 そのうちにSGO162巻5号に岩崎先生の論文も載っていました.「あれ? 岩崎先生は自分の研究を報告する前に,私に勧めていたのはこんなことかな」と思っていました.その後の岩崎先生の論文を見ますと,ディスカッションの所でOthers(他の人)が基本的なことを報告しているということが書かれていまして,そのOthersの文献を見ますと水本の論文でした.それは2月に出た私のSGOの引用ではなく,それがまだ発刊されていない頃に投稿されたと見えまして,研究会などを中心に発表してきた日本語の論文を引用しておられます.僕はこの岩崎先生の矜持といいますか,岩崎先生からすれば全く無視してもいいような日本語の論文を引用することに岩崎先生の素晴らしい人格を伺って,心から敬意を表するものです.岩崎先生は第38回総会会長をされていまして,もう亡くなられておられますので今回のようなインタビューに対応されることはないのですが,岩崎先生のお人柄につくづく感じ入ったものです.
 次に,腹腔鏡手術です.腹腔鏡手術は,私が担当した第40回総会は平成4年(1992年)になりますが,その前の年に腹腔鏡外科研究会が発足しています.これは1995年に学会になっていますが,発足当初から代表のお世話人の出月教授が私と非常に懇意であった関係で,私も世話人になっていて,これに参画してきました.まだ腹腔鏡手術がそれほど注目されていなかった時でありますし,実際この消化器外科学会総会で取り上げられたのは京大の山岡先生が会長をされた第57回の時に招聘講演となっていますけれども,そのような段階にこの第40回総会講演を行っていますが,今日の素晴らしい世界的な内視鏡手術の発展を見るに,この時に取り上げて良かったと思っています.
 もう1つの話題として,腫瘍進行度分類があります.これは癌治療学会を中心に広く行われてきたわけですが,胃がんの1番から十何番までのリンパ節などは当時日本だけの取り扱いのように思っていましたけれども,最近では韓国や中国,アジア,ヨーロッパ,特にイタリアまで非常に広く普及して,このナンバリングは国際的に定着しつつあります.私がこの時取り上げましたのは,癌治療学会の中で東大の草間教授がこれを担当されておられまして,「全身のリンパ節にナンバーを付けたらどうだ.腹部は300台にしたらどうだ.下桁は今までどおりの数字をしたら」ということを提唱されています.私はこれは素晴らしい発想だと思いますが,その後展開を見ていないのは残念に思っています.
 次に移植です.移植は脳死でも生体肝移植でもドナーの問題がありますが,実験的には生体肝移植は私が1971年に札幌の移植学会で発表しています.実際に臨床で成功したのは,1980年代に入ってから日本の子どもがオーストラリアのブリスベンで手術されたのが最初で,その後島根医大で1988年に小児,京大で1990年に小児,信州大学で1990年に成人の移植として使われていますが,ドナー不足,ドナー探しは国際的に問題になるくらいの重要なことです.
 私が講演を行った1992年に,ピッツバーグで九大出身の藤堂教授が異種移植手術を行われました.これは倫理委員会のIRBの承認の下でヒヒの肝を35歳の男の肝不全の患者に移植して,その翌日もう覚醒して自分の手術が映されていたテレビを見ていたとか,1週間たったらもう歩いているとかいう報告がありました.ちょうど1週間目に私はこの講演を行って,藤堂教授からファックスでもらった成績をこの会場で報告しました.後に藤堂先生から,23日後に拒絶反応が発生して,もう間もなくだろうという手紙をいただきました.移植手術の全盛期にはキメラといったことも言われましたが,これら夢の異種移植は結局残念なことに終わりました.今後期待できるのは何かというと,最近,横浜市大のiPSによるミニ肝臓で肝臓を置き換えることができたという報告が新聞をにぎわしたと思いますが,この方面に大いに期待したいと思います.
 最後に,1993年に第1回JDDWが発足していますが,その前の年に私はこの記念講演をやっているわけですけれども,その時に私は消化器病学会の理事でもありましたので,JDDWの企画を十分存じ上げていて,この40回講演では消化器外科も参画してはいかがという提案をしたわけです.その後,福井で開催された第46回総会で中川原会長は第3回のJDDWに部分参加していまして,それが第55回総会を担当された小川会長の時まで部分参加されています.中川原先生は私の提案に反応してくれたのだと思ったものですが,その後途絶えてしまいまして,正式にJDDWに消化器外科学会が参加したのは第8回大会の東北大学の佐々木会長の時からでありまして,一時消化器外科で名前のあった大会がここでまた復活した格好になります.この経過を見ると,提案した者として非常に残念に思いますが,それが今軌道に乗ったことはうれしく思っています.以上です.
太田
水本先生,ありがとうございました.25年前の「日本消化器外科学会の回顧と明日への期待」の記念特別講演のことを思い出していただきながら,肝門部胆管がん手術や腹腔鏡手術黎明期の話題,それからがん治療における臓器の垣根を越えた全身リンパ節のナンバリングや臓器移植の話題,そして最後にはJDDWのことについてお話していただきました.
 特に印象に残ったのは肝門部胆管がん手術の話題です.昭和20年代に世界で最初の定型的肝右葉切除と世界で2例目の膵臓全摘を行った本庄一夫先生が,金沢大学在任中の昭和30年代に世界で2例目の肝切除を伴う肝門部胆管がんの手術をされ,その貴重な症例報告を本庄先生の愛弟子である水本先生が担当されたということであります.その後,本庄先生のご指導のもとで貴重な手術経験を積み,肝臓手術にも膵臓手術にも精通した水本先生が胆道系のがんの中でも特に肝臓の要に位置する肝門部胆管がんの外科治療に目を向けられ、尾状葉合併切除を伴う肝門部胆管がんの根治手術を世界に先駆けて行い,それをSGOに投稿(162巻2号,1986年)されたことに大変感銘いたしました.また,その数か月あとのSGO(162巻5号, 1986)に岩崎先生の論文が掲載されたのですが,その論文のなかに水本先生が研究会等で発表されてきた日本語論文を引用し,世界で最初に本術式に取り組まれた水本先生の業績をしっかりと紹介されていたことを本日お聞きし,岩崎先生の科学者としてのすばらしい振る舞いにも敬服いたしました.
 
 ところで,ごく最近の横浜市大のミニ肝臓のiPSへの期待についても言及されましたが,この25年間でここまで進歩するというか,また鏡視下手術関連で最近はロボット手術まで出てきましたけれども,そういったものは当時予見できましたでしょうか.私はただただびっくりしているだけなのですが.
水本
腹腔鏡手術など内視鏡手術が世界的に飛躍的に広がったということまでは予測しませんでしたが,当時からこの方向に伸びていくということは感じました.それから,異種移植のほうはもうひとつで,まだ足踏みをしていますが,iPSで将来が少し見えてきたかというような感じはします.
 それで,第40回の総会で「明日への期待」とした項目の中から,四半世紀たった今の私の考えを申し上げたわけですが,私がもう1つ注目しているのは,がん免疫のことです.私は金沢大学在任中に,昭和35年から36年度ですが,日本対がん協会のがん研究奨励賞を受賞しまして,この時のテーマが「がんに対する免疫療法」です.主にやった仕事は,がん宿主のリンパ節とか脾臓がどのように働くかということで,学位論文を金沢大学で4つほど指導した内容がありまして,それぞれ『がん』などの雑誌に発表しています.
 最近,京大の本庶佑先生が生化学の領域を中心にPD-1(Programmed Cell Death 1),PD-L1(Programmed Cell Death Ligand 1)の遺伝子を同定されて,これはどうもそもそもがんではなくアポトーシスの解析中に見つけられたと聞いていますが,その抗体ががんに効くということで,宿主の免疫細胞の攻撃をがんが遮断している,それを覆そうという機序だと思いますが,チェックポイントインヒビターということで最近各領域で臨床面でメラノーマや胃がん,肺がんなどへの効果が発表されています.消化器外科領域でもおそらく出てくるのではないかと思いまして,私はそれを期待しているところです.
 一方,これには深刻な副作用があります.例えば,いろいろな全身の副作用があり,間質性肺炎とか心臓障害とか脳炎とかいろいろな障害がありますが,消化器の領域でも肝機能障害とか大腸炎とか大腸の穿孔とかそういう重篤な合併症が指摘されています.これはまた,そもそも作用機序が正常組織にも作用するということだと思いますが,この副作用で消化管穿孔したらまず外科のほうへ回ってくるでしょうし,それ以前に切除不能のがんに対して何とか手がないかというときに,この薬剤を選んでいく可能性が出てきますので,私はやはり今再びがん免疫が注目されてきたと思います.
 そもそも,がん免疫に対しましては,もう1世紀ぐらい前ですが,京大外科の鳥潟先生という方がインペジンセオリーというものを提唱されて,今日で言うとサイトカインか,あるいはマクロファージかというような際どいところですが,1世紀以前の昔にもこういう着眼があったということを思うと,真理は繰り返し取り上げられるのではないかという考えを持っています.
太田
ありがとうございました.今まさにトピックスであります,がん免疫療法のPD-1,PD-L1抗体治療について言及していただきました.これも先生ご自身が金沢大学におられた時から免疫学の研究を学位のテーマにして大学院生を指導されてこられましたし,それから,先生が京都大学に行かれたのは昭和40年ですね.本庄一夫先生が金沢大学から京都大学へ移られた時に一緒に異動されたのですから.そして,その後も外科医の立場から癌免疫の研究にも取り組んでこられ,「夢のがん治療薬」と期待されているPD-1,PD-L1抗体治療についても多くの専門的知識を持っておられる水本先生に大変敬服いたしました.

若き消化器外科医に期待すること

太田
水本先生,最後に,「これからの若い消化器外科医に期待すること」ということで,何かメッセージはありませんでしょうか.
水本
私の尊敬する岩崎洋治先生が第38回日本消化器外科学会を開催された時に「45人の提言:若き消化器外科医へ」という企画を組んでおられまして,45人の人からの提言を本にしていただいています.この中で胆道がんのことは私が担当していますが,私はこれを通読しまして,今私の心境として最も適合している内容は,東北大学名誉教授の槙哲夫先生の言葉です.今の太田先生のご提案に対して,私は槙先生のお言葉をそのままささげたいと思います.「消化器外科学会は,外科的症例の多いこと,無菌のものから有菌のもの,手技の簡単なものから難しいもの,体液や栄養に関することなど,人間全体を見る機会にも恵まれています.これらの多様性は,外科教育上から見ても中心的存在を成しているということに変わりはありません.私は,本学会の会員はこのことを意識しながら研さんすることが必要であると思っています.殊に一般外科,消化器外科を標ぼうする外科教室では,特定臓器を対象とする外科系教室,泌尿器,骨・関節,脳,心臓,その他とは別な心構えを持って教育・研究に当たるべきであろうと思っています」という言葉です.
太田
ありがとうございました.そのとおりだと私も思いますし,本当にこれからの若い先生方への非常にいいメッセージになったのではないかと思います.
 本日は大変ご多用のところ貴重な時間を割いていただき,そしてインタビューに応じてくださいまして誠にありがとうございました.
水本
ありがとうございました.