interview

50周年記念インタビュー
井出 博子 先生

女性医師の活躍が叫ばれている昨今ですが,東京女子医科大学の井手博子先生は
日本消化器外科学会の設立当初から外科医として活躍し,また学会活動に関わってこられました.
そんな井手先生に,消化器外科医として歩んだ50年を振り返っていただきました.
聞き役は日本消化器外科学会評議員 野村幸世先生です.

50年を振り返って

野村
それではインタビューをはじめさせていただきます.東京大学消化管外科の野村と申します.よろしくお願いいたします.
井手
女子医大消化器外科にいました井手博子といいます.消化器外科学会が50周年でしょう.昭和43年7月にこの学会が創立されたらしいんですけど,私はいつから入っていたのか,この間,事務局から聞いたんですよ.そうしたら昭和43年7月からだと.
野村
学会ができたときに入られた.
井手
そんな記憶はないんですけど,中山恒明先生の医局だったから,外科系は全部入るっていうような方針だったんだと思うんですけどね.入っていたみたいです.
野村
昭和43年頃って言いますと,先生は何年目でしょうか.
井手
昭和37年に卒業して,虎ノ門で1年間インターンして,虎ノ門の外科系レジデントを3年やりまして,それから女子医大にいきました.
野村
戻ったという感じですよね.
井手
そうですね.私が虎ノ門のレジデントをやっているうちに,中山先生が榊原 仟先生(東京女子医科大学)の招きに応えて女子医大に見えたっていう話を聞いたので,ジェネラルサージャリーをやりたいと思っていたので,心臓外科よりもそのほうがいいと思いました.小児科に行くことも考えたのですけど,中山先生が見えたので,そこに戻りたいと思い,3年で終えて戻りました.
野村
中山先生がボスになって女子医大の医局でもやはり女性の教授はいらっしゃったのですか?
井手
心臓外科と一般外科に,林 久恵先生という方がいました.ジェネラルサージェリーでもお一人いらっしゃったかと思います.
野村
女性の教授ですか.そんなに前からいらっしゃったんですか.
井手
女子医大ですからね.林先生は最初は講師で,後に教授になられたんですけど,その他の先生は,心臓外科などに入局しても,途中でいなくなってしまったりで消化器には誰も入ってこなかったですね.
野村
中山先生は女性の先生が入ることに抵抗はなかったんでしょうか.
井手
全然,そんなことはなかったと思います.
野村
そういうことを言う人ではなかったんですか.素晴らしいですね.
井手
意識していたのかどうかは知りませんけれど,全然そういうことじゃなくて.私にとっては自分の母校ですからね.入りたいっていうことで入れてもらったのです.
野村
私が卒業したのは先生よりだいぶ後になりますが,それでも私が卒業する時うちの大学の外科の医局の多くは,女は要らない,というふうに豪語しておりまして,門前払いというところがほとんどだったんですよ.
井手
そうだったんですか.いつ卒業されたんですか.
野村
平成元年,1989年です.そのとき,私が今所属している外科の教授が大原毅先生でした.
井手
ああ,知っています.
野村
先生とお年近いですよね.
井手
ほとんど同期だと思います.
野村
そうですよね.それで大原先生に伺ったところ,うちは働ければ関係ないよ男も女も,って言われて,それでその気になりまして.
井手
そうですか,よかったです.
野村
でも当時,そういうところばかりではなかったのですよ.
井手
そうでしょうね.でもあなたは母校に入られたのでしょう? 母校というのはやっぱり強いんですよ.
野村
そうですね.そういう意味では女子医大が母校っていうのはいいかもしれないですね.
井手
女子医大は全国ほとんどの大学から有志が集まって医療練士っていう制度で教育されていましたから,いわゆる生え抜きの女子医大卒業の男性がいませんので.それはラッキーでした.努力すれば差別はなかったですからね.
野村
いいですね.でも女子医大といっても男性の教授のほうが今でも多いのですよね.
井手
それはそうですね.
野村
結局はやっぱり外からいらっしゃるわけですよね.
井手
最初は女性も何人か入ってきて5,6年はがんばるのですけど,そのうちマイナーのほうに移行しちゃうってことが多かったです.今は女性でも例えば肝臓移植を目指してる人もいますので,少しずつ育ってくれたらいいなと思っています.
野村
そうですよね.せっかくやったのでしたらね,その先生は続けてほしいですよね.先生はご実家はお医者さんという訳ではなかったのですか.
井手
父は慶応大学で細菌学を研究していました.
野村
基礎の先生だったんですね.
井手
北里研究所にちょっといて,それから厚生省のほうにいって,役人といいますか.戦争後は衛生行政のほうに行きました.
野村
お父さんに影響されて医師を目指されたのでしょうか.
井手
そういうわけではないですね.父は医者らしくない人でしたから.
野村
そうでしたか.基礎系の先生でいらしたのですよね.お母様はお医者様ですか.
井手
違います.手に職を付けたいと思って医師になりました.
野村
先生の世代ですと,戦争のご体験などはありましたか.
井手
小学1年生のときに疎開して和歌山に行きました.
野村
そんな遠くに.
井手
1年生から和歌山の小学校に上がりました.東京にいたので,髪の毛を結わいていたのですけど,小学校の入学式のとき,母がリボンを付けてくれたのですが,学校の先生に戦争中なのにリボンなど付けるなって言われまして,うちの母はそれにぷんぷん怒ってました.
野村
ええ,そんな時代だったんですね.
井手
周りのみんなはおかっぱでしたからね.そのうち長い髪を切ることになったらみんな見に来ました.それから終戦後に小学校とか中学校とか,各地をぐるぐる回って,自宅が東京にあったものですから戻ってました.それで竹早高校に行って,女子医大を受験したのです.
野村
そうだったのですか.大変な時代でしたね.

食道を診る環境に恵まれた医師時代

野村
先生が消化器の中でも食道という大変なところを選ばれたのはどうしてなのですか.
井手
それは結局中山先生を見ていたからということです.中山先生を慕って患者さんがいっぱい来たのですよね.普通では経験できないほどたくさんの患者さんが来ていたので,非常に面白かったのです.昔,中山先生は消化管外科,千葉大学のもう一つ,第一外科は肝胆膵とかってセパレートしていたので,ほとんどそっちの患者さんは来ないのですよ.だから胃袋と食道と,あとは大腸とかそういうのもありましたけど,そのころは早期癌っていうのが分かってみんな研究していたので,私は中山先生のおかげで食道の症例をたくさん見ることができるような環境にいました.
野村
病理をやられてらっしゃったっておっしゃいましたよね.
井手
環境にはすごく恵まれていました.
野村
術後管理とか大変ですよね.今もですけれども.
井手
それは大変です.みんなに使われてましたよ.
野村
そうですか.食道手術したら帰れませんでしたよね.
井手
一週間ぐらいですね.まったく帰れないわけではないけど,しょっちゅう診てなくちゃいけませんね.
野村
今でこそうちの病院もICUドクターが術後数日は診てくれたりするのですけど,私が研修医のときは本当に1週間ぐらいはびったりで.
井手
そうですね.胃の先生とか大腸の先生はその日に帰れるでしょう.
遠藤光夫教授っていう先生が私のオーベンだったのですけど,とってもきめ細やかな先生で,食道癌のときに,自分で包交しちゃうんですよ.ついていくのが大変だったのですが,ともかくこまめに患者さんを診るっていうことを,上の人がするものですから,負けじとやらないと駄目でした.
野村
先生のお若い時代にはそんな大変さがあったのですね.虎ノ門から女子医大に戻られたあとはずっと女子医大にいらっしゃったのですか.
井手
そうです.
野村
そうですね,いっぱい症例がありますもんね.
井手
恵まれていたと思います.食道はその頃はあまり術前照射という治療法がなかったんです.今ほど抗癌剤もなかったので,中山先生は短期濃縮照射法って言って,500グレイで4回.それを4日間でやって,1週間ぐらい置いてもう手術するのですよ.そういうスタイルでした.東北大学とか慶應大学とか,そういうところは6000とか,たくさん掛けて手術していたことが多かったので,そうすると病理の先生は面白くないでしょう.
野村
変わっちゃいますよね.
井手
手術の標本をもらっても全然興味がないわけですよ.私のほうはわりと短期で,まだ変化も出てないときに病理にいれるからわりとたくさん症例があって,いろんなものが見れたのですけど,他の先生でそういうふうに興味持って病理をやる専門の先生ほとんどいらっしゃらなくて.
野村
そうなんですか.
井手
それで1980年代になってから早期癌が見つかりだして,昔の胃の早期癌を一生懸命やっていたような先生が,今度は食道癌に注目して,粘膜癌だほらなんだっていうような診断をやるようになって,放射線もそのころ掛けなくなりましたからね.だからとってもいい標本とか病態が分かったんですよ.
野村
そのころはあまり早期癌で見つかるということがなかったのですね.
井手
そうなのです.1980年代になってぽつぽつ見つかりだしました.
野村
やっぱり内視鏡で.
井手
内視鏡は,いわゆる側視鏡だったのですね.
野村
聞いたことがあります.
井手
胃のほうのですね.だから食道は塞がっていっちゃうから,見えないのですよ.それで,遠藤先生などがいろいろ診て,前方直視型の食道ファイバースコープというのが出てきてから,わりと表在が見つかるようになりました.
野村
そうだったのですね.確かに側視鏡って聞いたことがあります.でも私が卒業したころには既に側視鏡は通常はありませんでした.
井手
Uターンはできるし,いろいろできますよね.
野村
そうですね.
井手
だから,やっぱりファイバースコープや色素法の導入で,早期癌とか表在癌とか,そういうものがいろんな人の目に触れるようになって,病理の先生も興味深く見て,ああだこうだって言うようなことが起こりましてね.あとは郭清.
野村
郭清の話,先生されていましたよね.
井手
郭清は昔は偉い先生がちゃちゃって取って,私達はノータッチで見ているだけでしたけど,すぐ首やお腹に再発して,段々東北大の先生とかが器官の周りを郭清するとか,ここに転移が追えるとかそういうようなことを発表されて,それで三領域郭清っていうのは1985年ごろからずっと,90年の半ばごろまで主流で,術前照射とかそういうのはお止めになっていたのですよ.
野村
私は卒業したのが89年ですから,そのとき見たことというのが,これがスタンダードなのだろうって勝手に思っていたのですけど,三領域やっていましたね.術前照射はしないで三領域やって.
井手
真の姿をその時期に見れたのですよね.
野村
でも三領域やるせいか,結構合併症は多かったですね.
井手
大変でしたか.
野村
はい,多かったです.だから本当に食道手術されると帰れない生活でしたね.
井手
1980年代前半に私は都立駒込に2年間だけ出向したのですね.そのときに化学療法の科に,佐々木先生という癌センターから来られた方がいらしたのですけど,その先生に進行癌とかそういうのに使うような化学療法の使い方を教わって,1990年代ぐらいから少しずつ効く薬も出てきたものですからね,使うようになって,3カ月くらいで亡くなる人まで長生きできるようになりましたね.
野村
そうですね,今は長生きされる方が増えてきました.
井手
CRになる人もいっぱい出ましたね.消化器病センターでは化学療法,放射線療法,手術,それから姑息治療,そういうのを食道のチームを作ってやってたんです.だから3カ月から半年いると,2年分ぐらい経験できるのですよね.
野村
すごく勉強になりますね.うらやましいです.
井手
その点はよかったのですよ.ただ,その頃,羽生富士夫先生の後の教授になられた高崎健教授が,いわゆる臓器別をやめてしまったんですよ.そしたらめちゃくちゃになりましてね.
野村
どうめちゃくちゃになったのですか.
井手
もう郭清なんて,学会に来ない人までやるから分かってないですよね.すごくそこらへんでめちゃくちゃになりました.えらい目にあいましたけども.
野村
そういうこともあったのですね.うちの大学の歴史なんかですと,段々臓器別に細かくなっていきましたけど…….
井手
そうなのですよね.羽生先生は臓器別をきちっとそろえられたのですけど,違うふうになってしまって.若い先生が大きな肝臓癌の手術,膵臓癌の手術,食道癌の手術,3人持つとあっぷあっぷでしょう.
野村
はい,結構大変ですよね.
井手
その人の経過を後で追って診るっていうことができなくなっちゃったのですね.私たちが臓器別でやっていると病後まで全部ある程度フォローができるのですけどね.臓器別はわりと大切だと思います.
野村
先生は食道を.
井手
食道はとにかく標本をいっぱい見られたことと,それから駒込病院の出張中にいろんな食道癌の症例を病理で見れたことで,医学書院から『食道腫瘍の臨床病理』という本を出させてもらいました.一つこういった仕事をするとよく見えてくるというか,だから良かったと思います.