50周年記念インタビュー
土屋 周二 先生
学会創立から活動に関わり,また第25回総会会長を務められた土屋周二先生に,
長年のご経験で培った観点から学会の思い出や外科医に対する思いをお話しいただきました.
聞き役は日本消化器外科学会理事 遠藤格先生です
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語り手:土屋 周二
日本消化器外科学会 名誉会長 名誉会員
第25回日本消化器外科学会総会会長
元・横浜市立大学医学部第2外科 教授 -
聞き手:遠藤 格
日本消化器外科学会 理事
横浜市立大学 消化器・腫瘍外科学 主任教授
- 遠藤
- まず先生.第1回の日本消化器外科学会総会の思い出を伺いたいと思います.
- 土屋
- 第1回ですか.第1回会長は山岸三木雄先生ですね.
- 遠藤
- その時は先生は会場にいらっしゃったんですか.
- 土屋
- 行きましたね.まだ全然下っ端のほうでね.ここ(横浜市立大学)に来る前ですね.
- 遠藤
- どういう経緯でこの日本消化器外科学会が創立されたのか,先生の視点からお伺いできますでしょうか.
- 土屋
- その当時は日本外科学会が非常に広範囲を扱っていました.でもね,会員の中でも消化器関係の人がかなり多いんで,ちょっと全部消化しきれないんじゃないかという意見がありました.あれは名古屋ですかね,名古屋で日本癌治療学会があった時に,私どもは下っ端でそんなこと全然知らないけども,中山恒明先生(東京女子医科大学)とか村上忠重先生(東京医科歯科大学)ですかね,ああいうお歴々が集まりまして.その中で山岸先生が一番年配だったらしいんですよ.それで,あなたが第1回やりなさいって言われたっていう話ですね.で,大久保さん(大久保高明先生:横浜市立大学)が幹事になって第1回を開いて,しばらくは横浜市立大学第2外科に事務所があったんですよ.そのうちだんだん大きくなってきたのと,山岸先生の定年退官もあり,東京女子医大の消化器病センターに移りました.
- 遠藤
- 中山恒明先生のところですね.
- 土屋
- 移ってね,女子医大のほうで事務をしている間に事務所ができましたんですね.僕らはその頃はまだ,下っ端でただちょこまかしているだけでね.
- 遠藤
- 石川 浩一先生(東京大学第1外科)や梶谷 環先生(癌研外科)もお姿がありますが,梶谷先生も設立メンバーですか.
- 土屋
- 梶谷先生ともう一人,陣内傳之助先生(大阪大学第2外科)ですね.あの辺が当時の消化器外科のボスだったんです.
- 遠藤
- そうですか.
- 土屋
- 井口 潔先生(九州大学第2外科)もね.私のほうなんかもう歯牙にもかけられない下っ端で,後ろのほうで居眠りして帰っちゃったりなんかしました.
- 遠藤
- 第1回を開催されたのが,横浜の県立音楽堂のようですね.
- 土屋
- 会場がなくってね,横浜にも.山岸先生がやられたんで,僕はまだ横浜に来ていませんでしたからね.大久保高明先生なんかが,池田先生(池田典次先生:横浜市立大学)とかああいう方々がお世話されたんだと思いますけど.
- 遠藤
- これは昭和43年ですから.1968年ですね.
- 土屋
- そうです.一番学生運動が盛んな頃だったと思います.
- 遠藤
- 1968年に第1回の日本消化器外科学会総会があって,土屋先生が会長をされたのが1985年です.ということは,17年後に総会の会長をされたわけですね.
- 土屋
- そうですね.県民ホールだったと思います.その当時は横浜にあまり会場がなくって.ホテルなども探してもあまりなかったですね.あとは音楽堂ぐらいでしょうか.場所が足りなくて,宗教関係の建物も借りた事があります.われわれ,不信心な者には普段は近寄りがたいですが.
- 遠藤
- プログラムを見ますと先生がごあいさつされた後に山岸名誉教授,その次が梶谷先生ですね.慈恵医大の大井先生(大井 実先生)もごあいさつして.
- 土屋
- 大井先生も消化器外科では親分だね.長尾さん(長尾房大先生:慈恵医大)なんかも親分です.大井先生もよくしゃべる,弁が立つ方ですからね.
- 遠藤
- この時の会長講演のテーマが「直腸がんの外科治療に対する考察」ということで先生は当然,直腸がんなんですけど,それ以外のものでハッと思ったのが,シンポジウムに「消化器がんの集学的治療」というテーマのものがあるんですよ.1980年代は,直腸がんに放射線治療を行うようになってきた頃ですよね.
- 土屋
- 欧米ではほとんどやっていましたね.今でも基本となっている部分.
- 遠藤
- 標準ですよね.
- 土屋
- 放射線をあててから一月ぐらい置いてね.そのまま固まっちゃうやつがあるんですよね.これにはもう何もしないっていう,そういうポリシーになってきてますね.
- 遠藤
- なってきています.先生,このお考えは当時では先進的といいますか,30年早い着眼点だったのではないでしょうか.
- 土屋
- 放射線は日本でもやんなくちゃ駄目だなと思ってね.ただ当時の機械は線量がちょっと弱いんですよね.放射線の機械と人材っていうもののバックグラウンドがかなりしっかりしてる裕福なところでないと難しかった.やっぱりあとオペレーションがやりにくくなったりね,たまにペネトレーション起こしたりして.
- 遠藤
- でも結構長生きされてる方もいらっしゃるんですよね.
- 土屋
- 技術者には嫌がられましたよ.これじゃあ,手術やりにくくなっちゃうっていう.それは放射線のフォーカスのね,あれが今よりも甘かったわけでしょう.
- 遠藤
- そうですね.きっちりこういう枠内に収められないって.
- 土屋
- 今はコンピューターできちっと正確に,重点的にできますけども.それがまだ不十分だったんですよね.
- 遠藤
- そうですね.土屋先生は直腸がんの神経温存ですとか,乳がんの部分切除を.
- 土屋
- オーチンクロスですね.
- 遠藤
- オーチンクロス.早いですよね,先生.
- 土屋
- これ,やるってなったらね,横浜市立大学の学内でいろいろ,ああいう不確定なやり方はどうなのかって言われましたね.
- 遠藤
- やっぱりあったんですか.
- 土屋
- だいぶ皆さん反対したらしいんだけどね.竹村浩先生(横浜市立大学)が「もし何か事故が起きたら私が責任を取るから,いいからこれでやってくれ」って言ったんですよ.いわゆるオーチンクロス的な手術,大胸筋温存手術ですよね.あれで郭清は本当にできないか確認してくれって.リンパ節の取り具合を見たら,あんまり変わらないですよね.そういうことをやったことがありましたよ.
- 遠藤
- 先生は当時から,手術一本槍じゃなくて,縮小や集学的治療に注目されていたんですね.
- 土屋
- 外科手術っていうのは患者にとってはやってもらいたくない治療法ですよね.本人にとって深刻な問題ですからね.東大の大槻先生(大槻菊男先生)が昔から「手術はむやみにやっちゃいかんっ」て言われててね,外科教室の戒めになってたんですよ.だから,まあ,そりゃそうだなと思って.当時は郭清手技をしないと外科医の腕を問われたり,場合によっては倫理観まで問われる時代でした.がんはしっかり治そうっていう,なんていうんですか.
- 遠藤
- 外科医の哲学というか.
- 土屋
- そういうような風潮があったんですよ.
- 遠藤
- それは先生,この当時だったら梶谷先生と対立した意見だったんじゃないですか.
- 土屋
- まあ,梶谷先生は懐の広い方ですからね.そうは言うんだけど,めちゃくちゃなことはしないです.僕は直腸がんの側方郭清っていうようなことがいろいろありまして,問題になったことがあったんですけれどね.拡大,拡大って,みんなそれに必死になってたんですよ.
- 遠藤
- 一時はそうでしたね.
- 土屋
- 外科医はそうするときちっと手術したことになるから.自分でも達成感がありますからね.
- 遠藤
- 外科医の満足感ですね.やらないと意気地なしみたいに言われました.
- 土屋
- そう,意気地なしみたいに言われましたね.それで倫理に反するとか,あるいは腕が悪いんだなんていうこともね.そうやって異端者扱いされるんですよ.
- 遠藤
- まあ,陰口たたかれたりね.
- 土屋
- ちょっと変わってるなっていうような,風潮があったものですからね.
- 遠藤
- まあ,でも先生はそういうのを貫かれたということですよね.